186 宗教と科学(10) 人類の脳のクセと限界 

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186 宗教と科学(10) 人類の脳のクセと限界 

近代科学の論理体系には人間の脳の癖(生物的限界)が足かせとなり、情報の収集、観察、適用、予見、見通し、説明にもいくつかの限界、ひずみが生じることは前回書いた。近代科学は原理的には宇宙、自然のすべてを理解できることになっているが、実際にはそれはできないのだ。
この欠点、弱点はこれまでもさまざまな形で科学者たちは感じてきたが、まだ十分に広く理解されるに至っていない、と清水博東大名誉教授(生物システム学)は説く。少々、理屈っぽくなるが、話を聞こう。

前回の第一の限界の例。科学者たちは観測し、情報を得る際、認識上の困難が起きたとき、それは相手側の性質によるものか、それとも認識しようとしている人間の側に問題があるのか、それを判断する方法がまだみつかっていない。たとえば量子力学的世界に一般にみられる状態の不確定性は人間の観測限界と密接に結びついている、として清水さんはこまかく説明を加えるが、煩雑なので省く。なんとなくわかったことにしておこう。

第二の限界。人間の脳が一回に処理できる情報量は意外に少ない。だからいろいろ手抜きをしているらしい。ここはわかりやすいので少しくわしく書こう。
科学の論理的体系はボトムアップ型。アトムの個、アトムの集まりを力学的に処理して法則性をつかみ、次々とより大きなシステムに応用し、積み上げを繰り返していく。要素還元論の立場から発展させているのが特徴だ。このとき、威力を発揮するのは統計力学で、個々のアトムの次にはアトムの集まりを統計的に処理する。人間の脳が一回に処理できる情報量は限られているから、個々のアトムの振舞いをいちいち力学的に調べるのでなく、平均値をとるわけだ。国民の消費生活を調べるとき、個人を一人ずつ調査するかわりに、全体の平均値で間に合わせるのに似ている。
これまでの科学が基本的には再現性のある問題しか取り扱うことができなかったのもこうした背景がある。

統計的な方法がうまくいくには要素(アトム)の集まりを構成するすべての要素が等質であること、また、すべての要素の置かれている条件が同等であること、この二つが満たされねばならない。もし、個々の要素の性質が異なっていたり、さらに異なっていること自体が集まり全体の性質に密接に関係している場合も少なくない。
ここで清水さんはわかりやすい例えをあげている。「一冊の小説には多くの文字があるが、その文字が全部同じではなく、互いに異なっているために小説となることができるのである。文字が異なっているから、全体の中での配列が大切になるのであり、その配列を無視して字数を統計的に数える方法では小説のもっとも大切なところが伝わらない。」

実際、生物にはこのように他のアトムでは置き換えることのできない個性をもっているアトムが特定の位置に置かれているケースが多いのだそうだ。そのときには個々のアトムをそれぞれ具体的に取り扱わねばならない。こういうシステムを「複雑な不均質システム」と呼ぶが、一般に生物はこの複雑な不均質システムの典型とされる。このようなシステムをどんな理論で取り扱うかはまだわかっていないという。

生物の場合、分解して均質システムのみを取り出し、単純化して、それを厳密に取り扱う方法が考えられている。確かにこれも部分的には有効だが、あくまでも単純化したモデルに限定される。たとえばこのシステムの環境・境界条件やネットワークに関係した重要な情報を見逃している可能性が高い。

要素(アトム)のはじめの状態とシステムの周囲の環境・境界のチェックは重要だ。境界条件によって要素もシステムも変化の仕方が変わってしまう。ところが境界条件を調べる手だてがいまのところまったくない、お手上げなのだ。アトムと環境、境界条件を切り離した不備のもとでボトムアップの理論化がなされ、近代科学の力学は成果をおさめているのである。

第三の限界。人類の生まれつきの脳の癖が、真に科学的客観的な認識を妨げる点について。
これは将来、大きな問題となるだろうが、まださほど表面化していない。というのも、科学する側の認識のレベルや、自分に都合のよい解釈でどうにでも左右されるからである。自己言及的、自己申告的な問題といってよい。
人間が自然を観測し、(癖のある脳の思考で)つじつまが合うと判断し、適用できる範囲内で予見性をもつ理論をつくったとして、その理論をつぎつぎと拡張して論理的体系を構築した場合、それで一方的に自然のすべての現象を論理的にカバーできるのかということである。
 
ここで清水さんは「自分で自分自身を表現できない」というゲーデル不完全性定理や、エピメニデスの「嘘つきのパラドックス」、また量子力学的な不確定性、などを引き合いに出しながら、「人間が認識しているものは結局何なのかという問題につながる」と突き放している。人間が、近代科学が、自然や多様な現象を解明することの途方もない難しさが実感されてくる。                      (つづく)