182 宗教と科学(6) 〈信じる〉と〈知る〉

     ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 182

182 宗教と科学(6) 〈信じる〉と〈知る〉

 宗教的な修行によって得られるビジョンや体験――そんな話を見たり、聞いたりすると、一般に、あれは「異常」ではないか、「病的」だ、などとマイナス評価で片づけることが多かった。しかし、現在はむしろ「意識のレベルアップ、拡大」として医学、心理療法的にも重視されるようになったという。河合隼雄さんがまずあげるのはアメリカの精神科医、ブライアン・ワイスの報告例だ。

日本でも「前世療法」として邦訳されよく知られているレポートによると、患者に催眠をかけて意識をどんどん退化させながら記憶を語ってもらう。この技法でキャサリンという女性患者は幼少時から、さらに〈前世〉の記憶まで語りだした。強い恐怖と不安に襲われる症状に悩まされていたが、この記憶の再現によって、彼女は現代の人生に「納得」し、症状は消え、以前よりはるかに魅力的な女性になっていくプロセスが的確に詳細に客観的に記述されている、と河合さんは書いている。

さらに河合さんは、ある宗教家(仏教)によって前世のことを説かれて納得し、実際に悩みから抜け出た人のことを自分は知っている、この場合、「前世」ということがその人にとっての「神話の知」として役立ち、自分の人生を深く理解できるようになったのだろう、とも書いている。
――じつはこのくだりを引用しながらもボクは全面的には信じがたい。河合隼雄という著名な学者の書いたものだからとにかく信用することにして先に進もう。

河合さんはボクの疑いを見抜いたようにワイスの報告で、「ここには宗教家は登場せず、医者が登場するのだが、彼は医療行為はしていない。患者の退化・退行を助けるだけだ。このような話を聞くと、患者がでたらめをいっている、医者が暗示をかけたのだ、という人がいるがそうではない。」と釘をさし、ワイス自身の「話が正確かどうか確かめることができない類のことだが、信用を失わないためには科学者がまじめにこうしたことに取り組んでいくことが必要だ」という言葉を紹介している。

「輪廻転生」はこれまで宗教の領域であったが、ワイスは科学者が取り組むべきことを提唱している。しかし、だからといって、輪廻転生という事実があるとか、前世の存在が証明された、などとワイスは何も言及していない。ただ河合さんは「そんなのは単なる空想にすぎない、と決めつけるのも即断にすぎる」と考えている。このあと、心理療法の技術的なことが書かれているが、省略。

それよりボクが興味をもったのは、〈知る〉と〈信じる〉の違い、さらに〈物語〉を提案しているくだりだ。
「科学の知は〈知る〉と言えるが、神話の知は〈信じる〉としか言えない、という考え方をする人がある」と河合さんは前置きしてつぎのように例示する。

地球が球形というのは〈知っている〉のであって〈信じている〉というのではない。
これに対して来世があると〈信じる〉ことはできるが、〈知る〉ことはできない。
信じるはその人の主観的な判断であり、客観的判断の対象でない。知るは客観的な真実である。このように科学と宗教は次元が異なっている。だから対話はむりだという考え方だ。

これに対して河合さんは上述のような「輪廻転生」の〈体験〉の場合は、その人にとって〈信じる〉というより、そのような〈体験を知っている〉というべきでないか、と述べている。
一方で、世界的なベストセラー『死の瞬間』の著者、精神科医キュブラー・ロスが、「死後の世界の存在を私は〈信じている〉のでなく、科学者として〈知っている〉のだ」と言い切っていることに理解を示しながらも、言い過ぎだと指摘している。

 この点はなかなか興味深いので少し詳しくみてみよう。河合さんは別の著書『宗教と科学の接点』(岩波書店)で、ロスの『新死ぬ瞬間』の二人の訳者、秋山剛と早川東作による「訳者あとがき」を特筆すべき事実としてつぎのように引用する。

 「秋山は死後生は信仰の問題であって科学の認識対象ではないと主張するのに対し、早川はその立場が一般的であることも認めつつも、死後生は蓋然的(ある程度確かである)であって、近年の超心理学上(現在の科学では説明不可能と思われる精神現象を研究する心理学の1部門)の知見によると、ロスの主張するように科学的事実である可能性は否定できないと主張する。しかし、両者とも死後生を確信することがターミナルケアの精神的支柱であると理解している。この訳者たちの立場と思想の相違は宗教と科学の接点ともいえるロスの仕事の理解に役立ち、訳の上で二人が相補的な立場をとることになり中庸を保てたように思う。」

 訳者二人のあとがきを引用したうえで河合さんは、科学者ロスが死後の世界の存在を〈信じる〉といわずに〈知る〉とあえて強調するのは、それが事実に基づいているのであり、彼女の信念とか想像に基づいているのでないことを明らかにしたいからだ、と書く。
 ロスのいう〈事実〉とは何か、そのことは次回に。(つづく)