181 宗教と科学(5)ドイツの哲学者と日本の弓道師範の対決

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181 宗教と科学(5)ドイツの哲学者と日本の弓道師範の対決

宗教と科学の対話はむつかしい。それに似ているのは「東洋と西洋」の対話だが、両者が歩み寄った具体例として、河合隼雄・京大名誉教授はドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルと日本の弓道師範とのエピソードを紹介している。ヘリゲルは大正から昭和にかけて東北大学の講師として日本に滞在し、五年間、弓道を習う。その様子を書きとめたのが『弓と禅』(1981、福村出版)で、東西の文化の比較を語るとき、広く用いられる文献だ。やや長めに引用しよう。

ヘリゲルは日本にきて、まず禅を学ぼうとしたが、ある人に止められた。論理的な思考に慣れた彼には禅はとっつきにくい。最初は具体的に手でつかむことのできる芸道のようなものがよかろう、それを通してつかむことのできないものに移っていけばよいから、という理由だった。

彼は弓道に入門するが、師範の指導についていけない。師範は4つのことを教えた。
1「弓をひくのに、筋肉を使ってはならない」
2「肺で呼吸してはならない」
3「矢を放とうと意志してはならない」
4「的に当てようとしてはならない」

彼は腕を力いっぱい張らないと弓がひけない。見ると、たしかに師範は強い弓をひくときも腕はゆるんでいる。「呼吸の仕方が悪いからだ」と師範は腹式呼吸を教えるが、「呼吸は肺でするものでないか」「これでも自分は一心に力を抜こうとしているのだ」と彼は反発する。「いろいろ考えるのがいけない。何も考えずに呼吸だけに集中しなさい」と師範は諭す。
そのうち、やっと1と2はできるようになった。

しかし、3と4はどうしても納得できない。指の自然な放れを待つことができないのだ。
彼は合理的に主張する。「私が弓を引き放つのは的にあてるため。引くのは目的に対する手段です。意志するな、といわれてもそれはむりです」。これに対し、師範は「正しい弓道には目的も意図もありませんぞ!あなたは意志の行わないものは何も起こらないと考えていられるのですね」と反論する。

腹にすえかねたヘリゲルは「それでは先生は目隠しをしてでもあてられるのでしょうね」と言ってしまう。その夜、暗闇の道場で師範は矢を放ち、みごとに的を射る。さらに次の矢は先の矢の上に重なるように射抜いた。ヘリゲルは「この2本の矢で師範は私をも射止めたのであった」と書いている。

上記の対話の成立について、河合さんは非常に興味深いこととして、両者が「半歩ずつ」自分の領域を踏み出している点をあげている。
ヘリゲルは学者らしい慎みを破って「暗闇でもできるのか」と師範に挑戦している。師範は「正しい弓道には目的も意図もない」と主張していたのに、挑戦に乗って弟子を導く「意図」のために矢を射ている。

両者が自分の土俵に固執していると対話は生まれない。一歩はみ出すのはそれぞれのアイデンティティが壊れるが、半歩踏み出すのは可能だろう。むろん、対話が成立するまでにはそれぞれが悩み、工夫する時間の経過が必要だ。事実、ヘリゲルの場合も、途中で、師範と対立し、一度破門にされている。それを乗り越えて対話の成果が生まれたのだ。

宗教はその「教義」から、科学はその「理論体系」から、それぞれ半歩出る必要がある。双方とも、その一つだけで「すべてを説明しつくす」ものでないことの自覚も必要だ、として河合さんはそれぞれに注文をつけている。

科学の方ではすでに物理学の世界では半歩踏み出している。
すなわち、「観察者が現象を〈客観的〉に観察することはあり得ないこと」を、相対性理論は告げている。観察者と対象との〈関係性〉のあり方に注目し、それを認めようとしている。ニュートン力学は20世紀になってアインシュタイン相対性理論ノイマンやボーアの量子力学に王座を譲った。科学は永久不変の真理でなく、その時点での「ひとつの見方・考え方」にすぎないことを噛みしめたのだ。
しかし、社会科学、人文科学など「遅れてきた科学」は効率的な科学を真似て、近代科学の方法論に追いつこうとするあまり、現象そのものを問題にする態度が弱くなっている。実態から離れた理論倒れの「学問」を作りやすい傾向にある。

一方、宗教の方はなんでも「教義」に固執するのでなく、宗教現象を虚心にみることから出発してはどうだろう。ある現象について、教義を優先させたり、おしつけたりすると、こだわりなく見ることができない。まず、すなおに現象をみたうえで、教義や教祖の言葉に照らし合わせるようにしてはどうだろうか。

現象を虚心にみるというとき、意識のレベル、ということも考えねばならない。宗教的な修行によって得る体験やビジョンによって、通常の意識より、レベルアップされた状態。これまでは「異常」とか「病的」とレッテルを張られていたものが「意識の拡大」とみられるようになった。
この意識の拡大は、宗教的な修行に限らず、心理療法的なアプローチの方法としても最近いろいろな技法が生まれている。こうした意識の状態における体験が重要になりつつある。次回はこのような宗教と科学の対話から生まれた研究の報告をしよう。(つづく)