180 宗教と科学(4)「神話の知」は亡くなった母と自分を結ぶ

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180 宗教と科学(4)「神話の知」は亡くなった母と自分を結ぶ

キリスト教」から「関係性の喪失」にいたるプロセスを臨床心理学者で京大名誉教授の河合隼雄さんはつぎのように書く。

キリスト教一神教)を背景にして生まれた西洋近代自我は、自然科学というものを生み出し、その真理であることを実証してきた。ところがそれによって得られた結果は、キリスト教の教える個々の事実と整合しないことも多い。聖書に語られる奇跡を科学的に説明したり実証したりしようと努力する人さえ出てきたが、多くの人を納得させたとはいえない。信仰と科学は別だ、という割り切り方があるかもしれないが、〈一神教〉という特性は〈割切り〉を許さない。全体的に整合性を持つシステムを考え出さねばならないとするならば、科学の結果の実証性に頼っていく限り、宗教の方はだんだん否定されてくることになる。これが関係性の喪失という悩みを増大させている」

こうした問題を解決するため、人間の持つ〈知〉のありかたを検討してみようと河合さんは提案する。近代科学の〈知〉は人間にとってすべてでないことが明らかになった。さて、それに対比するものとして〈神話の知〉はどうだろう、と河合さんは哲学者中村雄二郎さんの文章を引用しながら書く。

「中村は『神話の知の基礎にあるのは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味をもったものとしてとらえたいという根源的な欲求』であると述べている。科学の知が自分と現象の切断を前提としているならば、神話の知は自分と自分をとりまく現象とのかかわりの意味を示してくれるものなのである。人間がこの世に生きている限り,自分と自分をとりまく物事(人間を含む)とのつながり、関係の意味というものをわかっていない限り、安心していられない。しかし、それには科学の知は答えてくれないのである」

そして臨床心理学の立場から次のような経験談を述べる。
抑うつ症の人には、親しい人の死後、心の整理がうまくいっていないと感じられるケースが多い。母親が死ぬ。あの母親がなぜいま、世を去っていったのか。これに対して科学の知は心臓マヒなどと説明してくれる。たとえ強盗に殺されたとしても「出血多量」などときちんと説明してくれる。しかし、本人の知りたいのはそうした科学の知ではなく、「自分との関係の中での、母の死の意味」なのだ。母の死を受け入れるにはそれにふさわしい「喪」の仕事がなくてはならない。そこには神話の知が必要になってくる。

たとえば「来世」という神話の知を信じるなら、その人と死んだ母との間に関係性が保持されることになる。母親はその人の心の中で生き続け、安らぎを与えてくれる。人はそれぞれ自分の「神話の知」を見い出すことで自分のまわりのものと関係を保つことができる。だが、そのとき自分の中の「科学者」はどう反応するのだろう。「真理はひとつ」という立場を取るなら、現代人の多くは科学の知を真理とし、神話の知は否定され、無宗教を掲げることになる。

前述の中村雄二郎さんは著書『哲学の現在』で、科学の知は現象を抽象的な概念に細分化して構成されている、これに対し、神話の知は意味をもった具体的なイメージで構成されていると古事記など例をあげて示している。
そのうえで「複雑なものの単純なものへの分割という方向をまっしぐらに進んだ近代科学は、実に多くのものをつくり出したと同時に実は多くのものをこわし、また実に多くのものを発見したと同時に、実に多くのものを見えにくくした」と述べ、自分と世界の関係性の復活を強調する。

近代科学を奉ずる人は自分と世界を切り離してイデオロギーを考え、そのイデオロギーにあてはめて世界を見ようとする。その際、自分は見られる側にいない。見る側、支配する側に身を置いている。だから一神教の神のように「自分は絶対に正しい」という考え方を持つことができるのだ。

これに対し、中村さんは「自分を世界のなかに入れこむ」。自分をも含んだものとして世界を見ようという。そうすると、「自分は絶対に正しい」とはいえなくなる。自分は他と切り離されていない。まわりも一緒なのだ。理論的に整合性をもつ、唯一絶対のイデオロギーで他を切断することはできなくなる。まわりとの関係性。多義性をそなえたイメージ。それが神話の知だ。

過去、神話は大衆操作のシンボルとして安易なナショナリズムの助長に一役買ってきた。多くの戦争をもたらしもした。このような反省から現代人は神話を非合理的と否定してきた側面も大きい。しかし、神話の否定は、関係性の喪失、意味の喪失につながっていくことを忘れるわけにはいかない。
切断の科学、つながりの神話・宗教。両者の歩み寄りを考えるうえでの素材を河合さんは「物語」と位置付けていくつか提供する。(つづく)