179 宗教と科学(3) 近代科学が失った「関係性」

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179 宗教と科学(3) 近代科学が失った「関係性」

 科学・技術の特徴は「普遍性」だ。世界にはいろんな地域・文化・宗教が存在するが、科学・技術はそれらの相違を超えて通用する。唯一の価値を押し付けてまかり通る。その威力は驚くべきで生みの親の人間はいつしかこれさえあれば自然万般さえコントールできると考えてきた。
ただし、近代科学が威力を発揮するにはある方法論が欠かせない。現象を観察する時、観察者と対象は完全に切断、分離されておらねばならぬ。それを前提に観察者は「客観的」に現象を観察するというのがセオリーだ。

人間は自然や現象の外に独立して登場する。従来の神に代わって、人間が自然万般を支配する新しい神となった。かつて世界を創り出し、その世界とは切り離されてそびえ立つ存在であった神を人間は否定した。しかし、いま人間はその一神論的構造までそっくり神から継承し、自然界に君臨する存在になってしまったのだ。

このような人間にとって重要なのは「自我」と「進歩」だと河合さんは書く。
「完全に自立した自我をもったものは、他を支配できる。19世紀の欧米人にとって自我の確立は重大な目標となった」
また、進歩については「これまでは神によって認められることによって安心できた。神がなくなるとなんらかの物差しが必要になる。その物差しが進歩だ。進歩は見えやすくわかりやすい。そして実際、科学技術はどんどん進歩した」

いまや科学技術を手にした人間は自然万般を支配できるーー。こんな近代の大勢に、最初に疑問符を投げかけたのは、河合さんによると、人間の『神経症症状』だったらしい。「心理的な原因によって起こる心身の機能障害」と辞書に記されているこの症状はとりわけ近代人の悩みの種だったが、従来、神からの贈りもの、あるいは罰と考えられていた。しかし、神抜きのいま、人間は普遍的な法則・科学技術によって説明せねばならない。これに挑んだのが精神分析創始者フロイトだ。

彼は人間の心に潜む〈無意識〉という概念を使って神経症を科学的に究明した。症状を原因―結果の連鎖で説明し、ある程度の成功を収めた。近代科学が人間の内面にも応用できると当時は考えられたのだ。
しかし、ほどなくこの法則の間違いが厳しく批判される羽目になった。「観察する者」と「観察される対象」は完全に切り離されているのが近代科学の原則だ。だが、フロイト精神分析はこれに反している。厳密な方法論に立つ近代科学者たちはフロイトの方法は近代科学でないことをたちまち証明してしまった。

すなわちーー
治療者と患者の人間関係を抜きにしては精神分析はできない。
仮に治療者が客観的観察者となっても、患者の内省、心の反応に頼らないと治療は進まない。
患者は自分の「無意識」について報告するとき、客観的観察者になり得ない。

などが次々と明らかにされた。
近代科学の方法は対象として「もの」を選んだときはうまくいくが、「人間」を選んだ場合、それほど簡単に支配できないのだ。

河合さんは書く。
「そこには人間と人間という〈関係〉が生じてくるために、近代科学において重視された方法論がそのまま役立たなくなるのである。近代に人間は急激なテクノロジーの〈進歩〉を体験した。それがあまり効果的であったので、科学的思考法が人間の考え方の中心となり、神を抜きにして、人間がその〈自我〉を確立させ、その自我が他を支配していく、その程度をどんどん強めていくことによって〈進歩〉し、幸福になると考えた」

ところが「人間」は「もの」ではなかった。人間が他と切り離されたものとしてではなく、他と関係するものとして考えざるを得ないことがわかったとき、近代や近代の思考とか常識を見直すことが必要となってきたのである。
フロイトは人間の心を科学的に分析、解明、説明することはできなかった。万能と思われた科学的思考法の落とし穴を露呈した。現代の私たちがもっとも考えねばならないこと、もっとも重要で反省すべきものは何か?
それは「関係性の喪失」だと河合さんは指摘する。

河合さんは臨床心理学の立場から、次のような例をあげて説明する。
「自分が強く自立することによって、他を支配し操作するイメージが強くなりすぎたため、たとえば〈上手な育児法〉などというものが存在し、そのマニュアルどおりにすれば、〈よい子〉が育つなどという錯覚を起こす。その通りに育てられた〈よい子〉は、関係性の回復を願うのであれこれと問題を起こしてくるが、両親は何とか〈よい方法〉はないか、と努力するので悪循環が続き、はては子どもも暴力をふるわざるを得ないことになり、時には殺人事件などさえ生じることは周知のとおりである」

子どもをまわりの人間関係から切り離し、子どもの自我確立を中心に「もの」のようにマニュアルどおりに育てることのひずみをいっているのだが、もしここに神・信仰が存在すればどうなるのだろうか。

河合さんは書いている。
「欧米に生まれた強力な自我確立の傾向は一神論的構造を持つが、キリスト教という信仰に支えられているうちは、関係性の喪失による問題は生じなかった。神と人間の間には明確な切断はあっても、それをつなぐ〈神の愛〉が中心的な役割を担っている。このことが人々を結ぶのに役立っている。」
「人―自然という関係。自ー他という関係の上に神という絶対他者の存在を想定するとき、人間は何もかもを支配できるという傲慢に陥らずにすむのだ」

科学技術も西洋近代自我もキリスト教(一神論的構造)を背景に生まれた。しかし、長ずるにおよんで生みの親のキリスト教と敵対関係になる。そこから生じる「関係性の喪失」。これが現代の悲劇だ。
この解決方法を次回も河合論文に沿って探っていく。(続く)