177 宗教と科学(1) 150億年前の記憶を抱くボクたち!?

      ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 177

177 宗教と科学(1) 150億年前の記憶を抱くボクたち!?

書店にいくと一般向けに書かれた「宇宙の誕生」や「命の起源」の解説書、エッセイの類がずらりと並んでいる。こんなに読む人が多いのだろうか。静かなブームなのだろうか。だれでも親しめるようにとの配慮からだろう、科学的ではあるが、やさしくわかりやすい表現になっている。
 
例えば「世界でいちばん美しい物語〈宇宙と生命と人類の誕生〉」(ちくま文庫)と題名からし少女小説風だ。この本はフランスを代表する宇宙物理学者、分子生物学者、古生物学者がそれぞれベテラン編集者の問いに答える形になっている。深い内容を平易な表現でということらしく、フランスでベストセラーになったそうだ。

 気になる個所を抜き書きしてみる。
 「私たちはいったい何者なのか。どこからやって来て,どこへ行こうとしているのか。何のために生きているのか。なぜ世界が存在するのか。この問いにこれまでは宗教や信仰だけが答えを与えてくれたが、今日では科学もまた独自の考えを持つようになった。これは20世紀における最大の成果のひとつだ。科学はどんな驚くべき事実を明らかにしたのか。それは150億年前のビッグバンからずっと一つの冒険が続いており、宇宙と生命と人類を長大な叙事詩の各章のように結びつけている、ということだ」

 「素粒子、原子、分子、星、細胞、有機体、生物、さらに人間という奇妙な動物へと、同じ一つの進化の過程、すべてが同じ鎖でつながれている。私たち人間はサルやバクテリアの子孫だが、また星や銀河の子孫でもある。私たちの体を構成する物質はかつて宇宙を作り上げた物質にほかならない。私たちはまさしく星の子なのだ。」

問いーー宗教と科学の違いについて。
「問題へのアプローチが違う。科学は世界を理解しようとする。宗教や哲学は意味を考える。これまでキリスト教は自分の世界解釈を押し付けようとして科学と激しく対立した。ガリレオが敵対する神学者に〈天国のことはあなた方にお任せするが、天がどう動くかは私たちに言わせてほしい〉といったのは有名だ。科学は目に見え知覚できるものに関心を持ち、目に見えるものの彼方にあるものを解釈したりはしない。科学は神の存在を肯定も否定もし得ない。」
カントと同じような論法である。見えない神の姿を科学は測定できないのだろう。

問い――それにしてもキリスト教だけでなく、ほかにも多くの神話が世界の創造を「光の爆発」として説明している。宗教や神話と科学〈ビッグバン〉とのこの類似性はどう理解すればいいのか。
「確かに古代エジプト人、北米インディアン、シュメール人など少なからぬ伝承説話にも現代科学と共通するものがある。偶然の一致なのか、それとも直観的に知っていたのか。まあ、私たち自身がビッグバンのチリからできているのだから、もしかすると、私たちは自分の中に宇宙の記憶を持っているのかもしれない」

私たちの肉体は宇宙の昔、150億年前の物質でできていると思うだけで、ドキっとするなあ。そのときの記憶がこの小さな肉体のどこかに宿っているなんて。
むろん、命の出現は神の意志、なんてことは科学書である本書は言わない。

「最初の命はどこから生まれたか、その説明は長い間、3つあった。
? 神が作ったという説(無知を覆い隠す便法)。
? 偶然、奇跡的に生まれた説(アホらしい仮説)。
? 地球の外から飛んできた(ナンセンス!)。
 
だが、いまでは正解ははっきりしている。物質進化の過程は、ビッグバン時の最初の結合に始まって、この地球上で分子は高分子へ、高分子は細胞へ、細胞は生物へ、動植物へとつながっている。この説が唱えられたのは1950年代だが、近年、これを裏付けるような発見、実験が数多くなされている」

 疑問の余地がないと断言している。しかし、宇宙の歴史はまるである決まった筋書きがあるように展開している、その基礎にあるものは?と問われて、科学者たちはつぎのように答える。
 「もし宇宙に膨張がなく、広大な星間空間がなければ、命は誕生しなかっただろう。しかし、そんな説明をしても問題は解決しない。そもそも法則とは何なのか。哲学者ライプニッツの例の〈なぜ、何もないのでなく、何かが存在しているのか〉という問いに似せていえば、〈なぜ、法則がないのでなく、法則が存在しているのか〉ということになるだけだ」
 
 これでは、まるで宇宙はそのように歩んできた、そういう法則性を俺たち科学者はみつけたんだ、それでいいじゃないか、という言い分のようである。
 前回まで岸根卓郎名誉教授が「宇宙の先験的情報」「宇宙の目的」あるいは「神」と呼んでいたものは科学者のいうこの法則性、および法則性の背後にあるものを指すのだろうか。それをこの科学者たちは「問い詰めても意味がない。要するに存在するものは存在するのだから」という言い方だ。逃げをうっている、はぐらかしている、無責任ではないか。

はじめボクはそう思ったが、いやそうではないと思いなおした。そこに存在するものを目に見える形で物理的に分析・還元するのが科学の分野であり限界だ。なぜそうなのか、なぜ存在するのか、を問うのは宗教(哲学)の仕事なのだった。

 とはいえ、宗教と科学がそれぞれ相手陣営のことは、存じません、と問題を放り投げているのもどうかと思う。次回から宗教と科学の歩み寄り、キャッチボールの動きを探ってみよう。(つづく)