174 生老病呆死(37) さて、つぎはどの星に生まれようかな

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 174

174 生老病呆死(37) さて、つぎはどの星に生まれようかな

 作家玄侑宗久さんは国際分子生物学会のプレ・イベントで生命科学者の中村桂子さんと対談した。テーマは「命の不思議」だったが、両者の話の進め方は正反対だったという。
中村さんはゲノムから細胞、そして生態系へと論旨を広げていく。極小から極大へ。
一方の玄侑さんは逆に全体性から個別へ話を狭めていく。極大から極小へ。

玄侑さんによれば、これは「科学」と「仏教」の考え方の違いだ。
中村さんは生命科学の立場からゲノムを物質として見たうえでネットワークを考える。科学は「いのち」を個別の中に認めるのだ。

これに対し、玄侑さんの仏教の立場では「いのち」は無限の関係性のうちに宿ると考える。仏教は個別の自立性と恒久性を認めない。「色即是空」である。まず全体性としての「空」(無限大の時間・空間の関係性のシステム)から説明し、個別としての「色」(現象・具体的な対象)へ移っていったというのだ。
中村さんは生命の最小単位としての細胞に命の不思議を感じ、玄侑さんは無限の宇宙の営みのなかに命の不思議をみつける…。
玄侑さんの趣旨は、前回の岸根卓郎さんの「宇宙=時空=命」に共通すると考えてよいだろう。

さて、岸根論文に戻る。
「現代科学に基づく宇宙論」と前置きして、宇宙の誕生と生物の結びつきへつながっていく。要点だけを抜粋しよう。
「ガモフの宇宙爆発・ビッグバン説によって宇宙の誕生が明らかになった」

ハッブルは宇宙が時間とともに膨張していることをみつけた」

「これによって時間は宇宙の始まりとともに始まり、それ以前には時間はなかったことになる。すべては無から始まった」

「ビッグバンの時点では時空はなかった。時空は命そのものという仏教的宇宙観によると、命もビッグバンから始まった。すべての生物の命は以来、百三十七億年もの宇宙年齢を経て進化してきた共通の時空である」

これはさらに「すべての命は大宇宙とともに進化してきた小宇宙であり、大宇宙の法則(自然の摂理ないし神の御手)のもとにある」――「これはまた大宇宙と小宇宙の予定調和という東洋的宇宙観の正しさをも証明するものとなる」

キリスト教のガチガチの宗派はいまも進化論を認めていない。宇宙も生物も命もすべて神が作り給うたものだからだ。このあたりははるかに仏教的宇宙観のほうが合理的にみえる。

つぎに岸根さんは宇宙の輪廻転生の法則を説く。
「宇宙空間には星間物質という宇宙のチリが漂い、そのチリが集まって星が誕生する。その星も寿命が来ると死滅(爆発)して再びチリとなり、それがまた集まって新しい星となる」

「50億年前に誕生した太陽も、あと50億年後には死滅するといわれている。そのときは地球を含め太陽系の物質はことごとくチリとなって宇宙に飛び散る。チリはやがて新しい星に生まれ変わり、宇宙のどこかで再び光り輝くだろう」

「その星には私たちの肉体も含まれている。私たちも新しい星に生まれ変わり、新しい命を得て宇宙のどこかで生き永らえることになるだろう。私たちの〈肉体〉も〈命〉も、星の生死とともに〈輪廻転生〉を繰り返すのだ。私たちが〈星くず〉と呼ばれるのも〈小宇宙〉といわれる由縁もそこにある。」

ポリネシア地方では、人々は夜空を眺めながら、自分が死んだら、次はあの星に生まれる、とめいめいが予告する風習があると聞いた。いい話だなと感心し、ボクもその年の年賀状の文句にこれをなぞったような文章を書いた。メルヘンとしても美しいが、これはメルヘンでなく、実際にあり得る話なのだ。
ボクの肉体をさかのぼれば、どんな星くずにたどりつくのだろう。そして、ボクの死後、いや50億年後、ボクの命はどんな星に生まれ変わり、宇宙のどのあたりで光り輝いているのだろうか、なんちゃって…。照れてしまうが。