173 生老病呆死(36)生物に命を与えた「目に見えない第三者」

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 173

173 生老病呆死(36)生物に命を与えた「目に見えない第三者」とは? 

生物を構成している物質をとことん分けて分けて分け尽すと、有機物の核酸(DNA)とタンパク質の二つになるそうだ。生物学的にいうと、この二つが「命の素」である。
京大名誉教授の岸根卓郎さんはつぎのように定義する。
「すべての生物は、環境との相互作用によって、自己の生存に必要な核酸とタンパク質を環境(宇宙)から獲得し、一方、生物から生じる老廃物を環境に返して命を得ている」

いかなる生物も環境(宇宙・自然)から命の材料を調達しているのだが、では、核酸とタンパク質の関係はどうなっているのだろう。家にたとえて言うと、核酸(DNA)が設計図で、建築資材がタンパク質になる。DNAの指示でタンパク質は働き、家が完成する。
DNAの正体が明らかになり、遺伝子の機能がすべて秘められていることがわかったのは1953年だ。当初はDNAを解明することで「命」の正体も突き止めると考えられていた。
けれど、DNAをいくら分析しても命はみつからなかった。DNAはあらゆる生物を作り出す設計図ではあるけれど、「命そのもの」とはまったく別物だとわかった。DNAは命をつくる指示はしても、あくまで物質にすぎない。「命」ではないのだった。

岸根さんは二つの例をあげる。
○自動車の例え:設計図と部品が全部そろって組み立てられた。けれど、それだけでは自動車は走ることができない。自動車以外の第三者、すなわち意志をもった人間がセルを稼働させ、行き先を指定せねばならない。走らせる(命を与える)のは人間である。
○コンピュータの例え:設計図通りにコンピュータを組み立ててもそのままでは稼働しない。稼働させる(命を与える)には、プログラムが必要であり、そのプログラムをつくるのはコンピュータ以外の第三者、すなわち意志をもった人間だ。

同じことが今度は人間についてもいえる。
人間をいくらDNA通りにつくっても、そのままでは人間は命を得て生きて行動することはできない。元気で生きていた人が突然、死んだとしよう。その時点では、その人のDNAは生きていたときと同じ状態なのに、人間はふたたび生きて行動することはできない。人間は一度命を絶たれたら、二度と命を得ることはできない。
DNA通りに人間をつくっても、命を得ることにはならないのだ。

生物が命を得るには、その命を与える、見えない「第三者」が存在している!
それはだれなのだろうか。
人間に命を与えるのは何者だろう。DNAでもなく、むろん人間自身でもないとしたらーー岸根さんはここから宗教的なものへとボクたちをいざなう。

人間をはじめ、すべての生物に「命そのもの」を与えるものーーそれは何か目に見えない第三者でないか。「超自然の力」あるいは「宇宙の力」、そういう存在が欠かせない。そしてそれを私たちは〈神〉とか〈仏〉と呼ぶのでないだろうか、と。

このあたりまではボクもなんとかついて来られたが、あとは宇宙と仏教をミックスした気宇壮大かついささか強引と見える論が登場、初心者のボクにお構いなしに駆け足で進んでいく。

「宇宙という言葉は中国の漢時代の書物にはじめて出てくる。宇宙は時間と空間のすべて、すなわち時空そのものということだ。一方、仏教(浄土教)では無限の過去から無限の未来への時間の流れを〈無量寿〉、無限の空間の広がりを〈無量光〉といい、このふたつを〈命〉とみる。そしてその命を具現したのが〈阿弥陀仏〉と説明されている。ここから『宇宙が時空であり、その時空が命であるとすれば、宇宙は命そのものである』という結論が導かれる」

つまり、宇宙=時空=命、この等式が岸根さんの仏教的宇宙観からの命論ということになる。
生命科学の極小のDNAから仏教の極大の宇宙・時間・空間論までひとまたぎした命の定義である。

これに関連して、住職兼作家で活躍中の玄侑宗久さんが興味ある発言をしている。次回に引用しよう。(次回につづく)