172  生老病呆死(35) 人は自然の一部か? 人工自然か?! 

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 172

172  生老病呆死(35) 人は自然の一部か? 人工自然か?! 

前回の中村桂子さんの話を要約してもう少し続けよう。

 「ゲノムで見ると、すべての生物が共通の祖先から生まれてきたということがわかる。同時にヒトはどのようにしてヒトになり、アリはどのようにしてアリになったのか、そのプロセスが解かれる。さらに人とアリはどんな関係にあるのかもわかってくる。」

 人間を含むすべての生き物は同じ両親のもとに誕生し、ゲノムに書き込まれた設計図にしたがって、それぞれの道をたどって今日に至っているのだ。生物のもつ普遍性、多様性、個別性。

中村さんは私たちの「外の自然と内の自然」との調和を強調する。
外の自然――「人間自身が他の生き物と同じ物質でできているので、自然の破壊は自らの破壊にもつながる」。これはよくわかる。
ふたつめの内なる自然――「大切なことは生き物としての私たちの中に込められた時間。私たちの一生はゲノムを読み解きながら進められていく。この時間は変えられないし、変えては意味がない。これこそ内なる自然の本質である」
この〈内なる自然を変えない〉、という意味がボクにはよくわからない。
定められた寿命を故意に、たとえば自殺など縮めてはいけないということなのだろうか。
 臓器移植を受けて寿命を故意に延長することなども含むのだろうか。

  関連して思いだしたのは詩人、思想家として著名な吉本隆明のこんな趣旨の発言だ。
宮沢賢治でもマルクスでも〈人間も自然の一部だ〉、という言い方をしたが、臓器移植が可能になった人体というのは、もはや自然の一部じゃない、極端に言うと、人間というのは〈人工自然〉と概念を変えねばならないのでないか。」
脳死を死として臓器移植を可能にすべきだ、という考え方も、脳死自体がまったき生への可逆性を含んでいないのであれば、いまの医学水準でいえばもっともじゃないかと感じる。
一方で、脳死を死と判定したら,民俗的、風俗的にいっても古代以来の死の観念にまったく反する、だから反対だ、という意見もしごくもっともに見える。両方の意見がわかる。
ぼくはこの問題は文明から〈要するにお前は人間も自然の一部だという考え方を変えることに賛成なのか反対なのか〉と問われているように思う」

このあと、吉本さんは「人間は目とか耳など感覚器官の観察による心の動きのほか、たとえば胃が悪くなると心が憂鬱になるなど、内臓器官からの心の動きーー内臓の脳みたいなものもある。医学がもっと進んだら、〈内臓も考える・感じるぜ〉みたいなことが明らかにされるかもしれない。もしかすると、この問題は、人間とか、死っていうものを根底から揺るがすとんでもない段階に入りつつある、そのことが本当は問題じゃないのかと」

宇宙のチリからボクたち命が誕生したプロセスや目的はいまだに謎であるけれど、とにかく40億年前にボクたちの生命を設計したゲノムにいま、ボクたちは変更を加えようとしているのだろうか。ヒトは〈人工自然〉になろうとしているのだろうか。

さて、岸根卓郎さんの『いのちと宇宙論』に戻ろう。
岸根さんはDNA・ゲノムを仏教の因縁生起(因縁)にあてはめて説明しようとする。

仏教の因縁の教えは、現在生じているすべての現象は直接および間接的な様々な原因や条件が重なり合った結果だと説く。仏教はこれを時間的、空間的に説明するが、生物学的にあてはめると、時間的には何十億年と継承されてきた生物のDNAに刻まれた「遺伝情報量」を、空間的には人間を含むすべての生物のDNAに共通する「遺伝文字」を意味するというのだ。
 
「過去の無数の因縁(直接的・間接的な原因)によって現在が生起し、現在の無数の因縁(直接的・間接的な原因)によって未来が生起するということであり、また、現在わたしたちに命があるのは、過去の因縁によるものであり、未来に命があるのは現在の因縁によるものである」

さらに「現在、私たちに命があるのは過去にあったすべての人たちの命のおかげであり、それは未来に向けて果てしなく続くであろう人たちの、命へとつながっている。その一人一人の命こそが、何十億年の歳月をかけて獲得してきた、長い長い一本の糸、すなわち〈DNA〉である」

親は同一でも、過去の因縁は一人一人異なっている。それを反映して現在の人間の一人一人も異なっている。因縁はこれからも変わっていく。人間の命・未来もまた因縁によって一人一人変わり続けていく。――これが仏教でいう「諸行無常(すべては無常であり常住しない)」の教えであるという。

でも、そもそも生物に命を与えたのは何者か。DNAを分析しても「命そのもの」はみつからない。次回は「見えざる第三者の存在」について岸根さんの持論を紹介する。