170  生老病呆死(33) ナズナ(ペンペン草)の瞬間と永遠

   ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 170

170  生老病呆死(33) ナズナ(ペンペン草)の瞬間と永遠

よく見れば ナズナ花咲く 垣根かな(芭蕉

哲学者西谷啓治は著書「宗教と非宗教の間」(岩波現代文庫)でこの句の背景や深い意味を掘り下げている。ちょっとむつかしい。軽薄なボクには甚だ不向きだが、ボク流にそそっかしくキーワードを並べて簡略化してみよう。
「私意」「実を知る」「無限」「造化」「永遠」「無常感と実在感」それに東西の哲学者、「キルケゴール」と「田辺元」が出てくる。

芭蕉は門人たちに「私心私意を捨てよ」と盛んに言った。自分が中心になってモノを見るという見方でなく、むしろ逆にモノが自分を見ているというとらえ方。私とか、自分という立場は破られる。これが仏教でいう「空」。ある意味で自分は死んでいる」

芭蕉の『…おのれの心をせめて(私意をなくして)ものの実を知る』という有名な言葉。〈実〉というのは〈ありのまま〉。自我をなくしたとき、真実のナズナの花が、あるがままのあり方において現われる。中国の禅の〈人山を見、山人を見る〉という言葉に似ている。人が自我をなくし、山をよく見ることによって、山の精神、境地と人が一つになるという意味だ。」

「ところでもっともありふれた雑草であるナズナ(別名ペンペン草)の花も背後に『無限』を持っている。無限な生命あるいは自然。もっといえば、芭蕉の好んだ言葉『造化にしたがひて造化にかへれ』の造化と言い換えてもいい」

*辞書によると造化とは「天地宇宙をつくり動かす根源の力、創造主」と説明されている。

ナズナが垣根の下で小さな花を咲かせている。そこには万物を生かし、万物を統一している宇宙的ないわば生命というふうなものが働いている。貧弱なナズナの花だが、そこに同時に無限な造化の生命を感ずる。それを感じる芭蕉自身もまた造化に帰り、無限な生命の場に立っている。宇宙的な大きな自然・生命を背景にナズナ芭蕉の無我の出会いがある」

無限を背景にした無我同士のナズナ芭蕉の出会い。これこそがほんとうの出会いだというのだ。ここまではなんとかわかった。つぎは「永遠」の出番だ。
ここは少し発想の飛躍がある。

「出会い」には必ず「別れ」がある。無常だ。しかし、この無常は大きな肯定の意味を併せ持つ。なぜならナズナの花そのものは無常で滅びやすいちっぽけな存在だが、背後には造化の無限の生命を含んでいるからだ。背後の無限の生命との出会いと思えば、そこに「永遠」的な意味が生まれる。ナズナの花の、はかなく滅びる有限な命とか、出会いと別れ、の「無常感」とともに同時に、無限の命につながる永遠的な深い「実在感」…。

「無常感が否定的な性格を持つとすれば、実在感は肯定的な性格を持つ。両方は切り離せない。無常なもののうちに深い実在感が出ている。『ナズナ花咲く』という句のなかには、だから一種の非常な無常感、底のない無常と底のない深い実在感というふうなものがある。この感じは無常でありながら実在感である」

さらに西谷先生は東西の有名な哲学者を登場させる。
「無常であるというのは時の1つ1つが瞬間という意味を持ってくる。たとえばキルケゴールは〈瞬間〉を〈時の内における永遠性の原子〉と呼んでいる。瞬間は時を成立させる今、であり、永遠につながる」。
瞬間の連続が永遠であるということだろう。

「それが芭蕉の場合は空ということから出てくる。無常を徹底したところで転換が起きる。田辺元先生は〈死・復活〉とよくいわれた。死――それと同時にその転換としての復活、それが〈瞬間〉である。そういう〈瞬間〉になった『ものとの出会い』のうちで、ナズナの実在感が無常感とひとつになって出てくる」

ナズナとの「出会いと別れ」は瞬間であり、無常だが、その背後には宇宙的な生命のシステムが働いている。それは永遠であり、底知れぬ実在感に支えられている、ということだろうか。

中学時代、国語教師が授業中に突然狂ったように「人間の感動の源泉は〈無限の中にいる有限な自分〉に気づくことだ」と絶叫したのを思い出す。
田辺元のユニークな「死の哲学」や、仏教の「空」についてはたどたどしいながら、いずれ触れていくことにしよう。