169 生老病呆死(32) 世界三大詩人が見た「小さな花」
ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 169
169 生老病呆死(32) 世界三大詩人が見た「小さな花」
世界的な詩人たちは〈小さな花〉にどう向き合っているかーー名著「自由からの逃走」の著者エリッヒ・フロムはエッセイ集「TO・HAVE・OR・TO・BE」(所有か存在か)のなかで、英国のテニスン、ドイツのゲーテ、日本の松尾芭蕉を例に比較している、と草柳大蔵さんが紹介している。詩人たちのそれぞれ花への態度、接し方を通じて西洋文化と日本文化の違いがあらわれて興味深い。以下に孫引きしよう。
テニスンは町はずれを散歩していると、ふと、崩れかかった廃屋にさしかかった。土壁に一輪の白い花が咲いている。「ああ、野の花というけれど、こんな崩れかかった家の土の壁のところに、こんな美しい花が咲いているのか」と、テニスンは壁土を掘り崩してその花を持って帰り、自宅の庭に植えた。翌年も花は咲き、テニスンは花の詩を書いた。
ゲーテは、森の道を歩いているとき、道端に咲いている小さな花をみつける。「ああ、いいな」と感じて、テニスンと同じようにこれをわが家に持ち帰り,庭に植える。
日本の芭蕉はどうか。
―――よく見れば
ナズナ花咲く
垣根かなーーー
といって、すうっと通り過ぎてしまった。
フロムは、西洋と日本の文化はこれだけ違うのだと指摘する。
テニスンとゲーテは「TO・HAVE」(所有)だ。われわれ西洋文化は、花を自分の所有に帰して、はじめて自分の世界が構築できる。自然のものを自分に取り込もうとする。
芭蕉の場合はそうではない。
小さな野の花を自分のものにしないで、その花を咲かしている大きな力、大きな命というものに目を当てている。そしてナズナの花に手を触れないで過ぎ去っていった。
けれど、彼はもっと大きなものーーナズナの花の背後にあって、ナズナの花を咲かせた力そのものを持ち帰ったのだと。
フロムがこの世界の3大詩人について比較を思いついたのは、わが国の仏教哲学者鈴木大拙に教示されたのがきっかけという。
芭蕉のこの有名な句は多くの仏教書、哲学書に引用されている。次回は西田幾太郎門下の著名な哲学者、西谷啓治の文章を中心に考えてみよう。
ところで唐突に思い出したことがある。
一か月半ほど前、自宅近くの大通りを散策した。左右の緑地は自治体やボランティアの人たちが植えた花々が輝いている。いい気分になっていた。それを買い物帰りらしい初老のおばさんがビニール袋いっぱい摘んで持ち帰っているのに出くわした。
近くの里山で野の花を持ち帰る光景も不快だが、人通りの絶えない街路樹沿いの道で、よくもまあ、とあきれた。家で自分たち家族だけで楽しもうという魂胆だろうか。「これは市民みんなの花だよ!」と注意したかったがやめた。豊かそうでない身なりを見ているうちに、おばさん本人か、あるいは家族の誰かが、この不況で仕事を打ち切られ、せめて無料の花でも両手にいっぱい持ちかえって、家族で豊かな気分になろうとしているのかもしれないな、とへんなことを考えてしまったのだ。