168  生老病呆死(31) 童謡が描く「来迎と往生」

   168  生老病呆死(31) 童謡が描く「来迎と往生」

日本人の宗教心の特徴をもっともよく表しているのは童謡「夕焼小焼」だと韓国のある宗教家が言ったそうだ。五木寛之がどこかに書いていた。その理由には触れていなかったが、CDを買ってきて聴いてみると、なんとなくうなずける。

♪夕焼け小焼けで 日が暮れて
山のお寺の 鐘がなる
お手々つないで 皆かえろ
カラスと一緒に 帰りましょう♪

♪子供が帰った 後からは
円い大きな お月さま……♪

鐘は、この世の滞在の終わりを告げる。子供たちは隠れん坊や鬼ごっこをまだ続けたくても、そろそろやめねばならない。もっと遊びたくても、家に帰らねばならない時刻がきた。ご来迎だ。

だれが鐘を鳴らしたのだろう。帰る時刻を決めたのだろう。それはお父さんやお母さんよりもっと大きな大きなだれかだーー。仏が私たちを浄土へ導くために迎えに来てくれる時刻。

いじめっ子もいじめられっこも鬼さんも、浄土へ行くときはみんな同じだ。手をつないで、仲良く往生する。この世で演じていたキャラクターはご破算。仮面を脱いでほんとうのいのちに戻るとき。
そして子供たちのざわめきが過ぎたあと、ただ、お月さまだけがひとり満天下を照らしている。

♪「カラスも一緒に」、というくだりにも注目しよう。
人間だけではない、カラスも同じいのち、みんな一緒に浄土へいくのだ。この世ではたまたま、人間とカラスにわかれていても、じつはみんな同じいのちなのだから、浄土ではいっしょになるのだ。

 「来迎と往生」について、かつて仏教大学の教授だった久下陛という人が童謡「十五夜お月さん」の歌詞がぴったりだ、と言っている。

十五夜お月さん
婆やは おいとま とりました♪

十五夜お月さん
妹は 田舎へもらわれて ゆきました♪

十五夜お月さん
母さんに も一度 わたしは 逢いたいな♪

 久下先生はこの歌詞をあげ、「わたしがどこにいても、どんな目にあっていても、ちゃんとお月さまは見てござる、この心境、これが来迎と往生の関係だ」と述べている。そういわれて聴いていると、ものがなしいメロデーとともに、この世とあの世の境界のような独特の時空が立ち上ってくる。

久下先生はそれ以上説明していないし、それだけで十分なのだろう。めいめいがイメージを描けばいい。屁理屈好きのボクは歌詞と来迎・往生の筋書きを無粋にこじつけてみたくなる。
「お母さんが死んだ。婆やも妹も家からいなくなり、わたしはひとりぽっちになった。お月さんはそんなあれこれの事情をみんな分かってくれている。お月さんはあの世だって照らしている。亡くなったお母さんもあの世でこのお月さんを眺めているかしれない。ああ、お月さん、わたしももうあの世に逝ってお母さんに逢いたいなあ」。
つまり、お月さまに来迎(自分の死の到来)を催促し、往生(浄土への願い)をアピールしている…。

先日、購入したCD全集に「あした」という童謡がある。

  ♪お母さま
  泣かずにねんね いたしましょ
  赤いお船で 父さまの
  かえるあしたを たのしみに♪


『美しく歌いやすいメロディーだが、なんて礼儀正しい言葉づかいだろう。赤い船に乗ったお父さんが明日帰ってくるのになぜこんなにさびしいメロディーなのだろう、とふしぎなのです』と解説がついていた。

ボクも子供のころ、両親がけんかした夜とか、父親が戻ってこないとき、心さみしい時、この童謡を口ずさんだのを思い出す。さみしいメロディーと「泣かずにねんね」とか「父さまのかえるあした」の歌詞に無意識ながら癒しを求めていたのだろうか。

老人になったボクはいま、この童謡を宗教色の濃い、この世の救いようのない無残と無常をうたっているように思えてくる。
〈お父さまは明日になってもかえってこないのだ。それはわかっているけれど、かえってくると信じて、泣かずにねんねするほかはないのだ。それが癒しなのだ〉と。

さらにひとつ、屁理屈をつけさせてほしい。
『お父さまはこの世の色眼鏡をつけた現実世界では二度と見ることはできない。しかし、色眼鏡を外すと、宇宙・真理・永遠のなかに溶け込んだお父さまが生き生きと見える。いつもいつまでも、お父さまはあの日々のように笑顔でわたしたちに語りかけている…』
ボクは死ぬまでにこんな境地になりたい。まじめにそう考えている。