167  捨て犬・イルカ・コンビニの大量廃棄処分騒動

167  捨て犬・イルカ・コンビニの大量廃棄処分騒動

 前回のシンポジュウムと同じころ、奈良康明駒沢大学副学長はある仏教セミナーで動物や山川草木のいのちと仏教との関わりについて講演している。欧米と日本の考え方の違いなどもいくつか身近なエピソードで紹介されているので要約しておこう。

 ひとつは捨て犬論争。
 「捨て犬のことで英国の宗教学者と話したことがある。私は日本人は心根の優しい人間で、捨てることはできても殺すのはしのびない。子犬をボール箱に入れて、牛乳ビンの一本も添えて裕福そうな家の前にそっと置いてくる。『なんとかこの家で拾って飼われ、命永らえてくれよ』と祈りながら捨ててくるんだ、とそう申しました。すると、その英国人は『なんと残酷なことをするのか。結局、飢え凍えて死んでしまうじゃないか』というわけです。事実はまさにその通りです。『では、英国ではどうやって犬を捨てるのか』と聞くと、絶対に犬は捨てないのだそうです。犬を飼えないときには保健所にもっていって薬を盛って毒殺するという。日本人の大部分はこちらの方法を『かわいそうに』と思うでしょう。
 英国人にいわせれば、薬殺なり何なり、苦しまないように殺すのは残酷ではない。日本人のように、ほったらかしにして飢え死にさせるのは残酷だ、となるわけです。つまり、日本人は眼前で殺すことに抵抗があるが、西欧の人にとっては、殺すこと自体はいい悪いの問題ではない。殺し方の方にウエイトが置かれているわけです。」
 つぎは先年、長崎県壱岐島で起きた有名なイルカ騒動がテーマだ。
騒動の顛末を説明すると、イルカに漁場を荒らされた漁民は4年間で約6400頭を捕獲し、浜で鼻先をハンマーようのもので叩き殺した。これが欧米の新聞に写真付きで報道され、大きな反響を巻き起こした。欧米から多くの保護活動家がやってきて反対運動を展開。ついに夜間、海中の網を破ってイルカを逃がすなどにエスカレートした。
この実力行使をした米人活動家は長崎地裁で執行猶予付きの有罪判決を受け、米国に送還されたが、今度は別のアメリカの自然保護協会から漁業組合に「イルカ1頭について200ドル払う、だからイルカを殺すな」という申し入れがあった。はじめ、漁民は歓迎したが、保護協会は買ったイルカをその場で海に放す、という。それで話し合いはご破算になった。

 奈良副学長はこの騒動を紹介した後、五つの問題点を整理している。
1、 欧米人はイルカは利口で知性が高く、人間に近い。だから人間と同じく命を尊重しなければならないという。これに対し、日本人・漁民の言い分は「知性の低い動物ならいくら殺してもかまわないのか。もしそうなら、かつてナチス・ドイツアーリア人優秀説を唱え、ユダヤ人虐殺に走ったのと同じ発想になるのでないか」となる。欧米ではイルカは古来、人間と親しい関係という文化的背景があるのを差し引いても、「知性の低い動物はいくら殺してもいい」という発想は日本人には割り切れない。
2、 欧米人はイルカは有害な動物ではないと主張する。日本人・漁民にすればこれは受け入れがたい。現に漁場が被害を受けている。この点は裁判でも論争のひとつになり、結局「イルカは漁民の生活の源であるブリとかイカを食い荒らしてしまう。これは人間の生活権の侵害であり、人間にとって有害な動物である」という判決が出た。
ただ、人間に有害であるか無害であるかが決め手になるなら、有害ならイルカでも何でも殺していいのかということになる。
アメリカでも農作物を荒らす野ウサギが環境団体などの反対にもかかわらず1万匹単位で繰り返し捕獲、撲殺されている。「人間にとって有害だから」という理由です。日本人からすれば、「それならイルカはどうなる」となりますね。欧米の感覚でイルカが害をなすはずがない、と独断されても困る。
3、 裁判で欧米側は「漁民のイルカの殺し方がひどい」と指摘した。浜に打ち上げ、鼻先を殴り殺すやりかた。日本側は「これは感覚の相違だ。欧米でも現にウサギは撲殺しているではないか」と反論した。
4、 欧米側は「イルカがブリやイカを食べるのはイルカの生きるための権利だ。人間がイルカの生きる権利を奪うことはできない」と主張した。これは奇妙な論理と思う。欧米の人たちが殺して食べている牛や豚の生きる権利はどうなるのか、ということになる。
5、 上記に関連して、「牛や豚は人間が食べるために殺す。イルカは人間が食べるために殺すのではないだろう」という非難が欧米側にあった。日本側からは「それならキツネ狩り遊びはどうなのだ」と反論が出てこよう。カナダのアザラシ猟もある、これは毛皮を取るためのもので人間が食べるためではない。さらに米国の雑誌には時々、青少年の健全な遊びのためにと銘打って「リスの殺し方」などを扱っている。これはどうなのだと疑問が出てくる。

  以上を挙げたうえで、奈良先生は仏教学者らしくつぎのように締めくくる。
 「日本人も生きものの肉を食用にしているのは欧米と同じだが、これらの動物は人間に食べられるために存在しているという考え方はない。基本的には生きものを殺すのはよくないという認識がまずある。その上でわれわれ人間は動植物の命を奪わずには生きていけないという悲しい業のようなものがある。だから極力、無用な殺しはすまい、必要最小限の殺しに留めよう、むだはするな、もったいない、の姿勢がある。しかもなお、動植物に申し訳ない、ごめんなさいね、というじくじたる思い、謝りながら殺して食べている面があると思う。」

 最近の日本のコンビニの期限切れ廃棄処分をめぐる騒動をみていると、生きものの命も、人間の命も、もったいなさも、へったくれもなさそうだ。自分たちの金もうけのためには、食べられる命たちもむだに捨てろ、、捨てろ、捨てろ。毎日数千人単位で飢え死にしている地球の人間の子供たちの命も、6000万人の飢え死に直前の人たちも、そこどけそこどけ、際限のない紙幣コレクションの強欲ぶりだけが浮かんでくる。ボクらのような老人は敗戦後の貧しい日本の光景が明滅して、これもまた人間の業ですねえ。