166  臓器移植と自然破壊と「仏教」

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 166

166  臓器移植と自然破壊と「仏教」

 最近、臓器移植法をめぐる論議がまたまた騒がしい。約20年前のこのシンポジュウムでも、仏教大学の水谷幸正学長が「仏教の立場からどうなのだろう?」と問題提起している。これに応じて佐伯真光住職先生が逆に問題提起を押し返すような挑発発言をしている。

 「臓器移植の論議は日本ばかりでなく、欧米でも大問題になっている。しかし、日本とは根本的に違う。欧米の議論はあくまでキリスト教の教義に照らして、〈こういうことをしたら神の領域に踏み込むのでないか〉という形でなされる。同じ現象でも日本はただ欧米のキリスト教的論調を受け売りして騒いでいるだけだ。日本人独自の、仏教徒としての立場からはっきりした考え方を打ち出すべきだ。
 日本人は仏教徒で生命を大切にする、動物をかわいがる、と言いながら世界で一番遠慮会釈なく自然破壊をしている。生命非尊重をやっている。その理由はなぜか? どなたか答えてくれませんか」

 この発言はいまも新鮮だ。
先般、臓器移植法の改正案が衆院で可決されたが、議会の論議も、関係者のイエス・ノーの声も感情の表層で漂っている印象である。考え方に背骨がなく、それぞれが一方的でバラバラで断片的だ。お互いが言いっぱなし。寄り合う素地がない。それというのも、住職先生のいう通り欧米のようなキリスト教的基本形がないからだろう。命はどなたもお一人様につき一個だけ、一度だけと決まっている。提供する方も、もらう側もそれぞれ必死な個人的思惑がつきまとうのも当然だ。だが、これら個別の命と事情を貫いて超えた死生観を取り扱うのが宗教というものだろう。不毛な脳死論争を聞いていると、内外で言われるように日本はやはり世界に冠たる非宗教の国なのだな、と実感する。

 ところで逆質問された水谷学長はなんだかすれ違うようにこう答えた。
 「何が死であり何が生であるかを問うのが仏教ではないと思う。そうではなくて、生の意味、死の意味、を仏教は問うている。だから、脳死とか心臓死とか遺伝子がどうの、というのは仏教の分野ではないと考えています。若い人たちに生きる目的、生きる意味を教えることも命の尊さの大事な側面の一つではないでしょうか。」

 水谷学長はおそらく博学・温厚の人であろうが、こういうあいまいで漠然とした話は、結局、具体的なパンチ、照準を見つけられないまま、人畜無害であたりさわりのないところに落ち着く。いまの仏教界の鈍重な、あなた任せの実践活動を象徴しているように思われる。
 
 このシンポジュウムでは佐伯住職先生の敵役に回る場面の多い奈良・副学長が発言する。
 「佐伯さんは先ほど、仏教は生命の尊重をうたい、人間と動植物、山川草木までが横の関係にあるといいながら、日本ほど自然破壊をしている国民はいない。そのギャップはどうなんだ、とおっしゃった。じつは私はアメリカでも同じ質問を受けた。仏教の文化伝承のある日本でなぜ仏教の教えがこのように裏目に出てきてしまったのか。
ひとつだけ私が感じるのは欧米でも自然破壊をしている、ただ、それはキリスト教的に承知の上で、なのです。
要するに〈自然は人間に役立つべきものである〉ということから人間に都合のいいようにやってきた。その結果、妙なことになってきたので改めて〈自然を大事にしましょう〉となったが、あくまで人間中心主義から見た自然環境保護という面がある。先般、あるフランス人と九州を旅した。車窓から美しい自然を眺めていたら、変な建物が作られ、自然が台無しになっている所がある。フランス人はさんざん日本人の悪口を言ったが、最後につぶやくように〈自然というものは美しくしておくもんだ。さもないと人間が楽しめないではないか〉と。私、ちょっとショックでした。」

つまりーーわれわれ日本人だって、自然を大事にしよう、という。しかし、人間が楽しむために自然をとっておくという、そんな露骨な発想はない。自然と人間の共感みたいなものがあり、それが壊されるのは何か自分の一部が壊されるような感覚が日本にはあるというのだ。では、なぜ平気で自然破壊が行われるのか? やはり日本人のそういう素朴な共感意識、宗教的な考え方が情緒的で、根が浅い。だから現実の人生を動かすお金などがからむと勝負にならない。やはり仏教の理論的なものを背景に持ちながら社会的な運動が展開される必要が、というのが奈良先生の意見だ。

この意見に全面的に賛成だが、ひとこと追加を、と佐伯先生が立ち上がる。
「日本人は個人レベルの花鳥風月的自然観で自然の中に没入しようとする。自然と対立しているのはあくまで個人。欧米の場合、自然と対立しているのは複数の人間、つまり社会です。だから社会のために自然は必要だから残さなくてはならない。ところが、日本は個人対自然だから、個人的には造庭とか盆栽などで自然を鑑賞したり保護するけれど、社会全体の問題として自然を守るという考えが成立しにくいのでは…」
なるほどーー、ところで欧米に比べて個人主義の乏しいとされる日本人が、自然についてはなぜか盆栽とか造庭など個人技を競いたがるのはなぜだろう、とふと思案した。