165  鳥獣の釣り堀とか、原爆投下とか

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 165

165  鳥獣の釣り堀とか、原爆投下とか

 欧米人は動植物の命を奪うのを「当然の権利」とし、日本人や仏教徒は「ごめんなさい」と謝る、それは日本人のやさしい心情だから、とシンポジュウムで奈良康明駒沢大学副学長は発言した(前回参照)。しかし、例外もあると日本猟友会の例をあげている。

 獲物が少なくなった。だから特定の地域を選んで、鳥獣を飼育し、それを鉄砲の餌食にしようという計画を立てているという。鉄砲遊びに鳥獣の命を増やし、殺そうというのである。猟友会の関係者に奈良先生はクレームをつけた。ところが関係者は「うなぎだって、ハマチだって、マスだって、みんな養殖して食っているじゃないか。釣り堀だってわざわざ魚を放して、増やして、釣りを楽しんでいるじゃないか」と反論したそうだ。

 「理屈を言えば、なんとでも言えるのだが、猟のために動物を飼育して殺す,そこには、生きものの命をとる際の心の痛みがまったくない。仏教は公式主義じゃない、というのはこんなところにも出てくる。人によってみんな考えが違う。公式化した形で〈絶対にこうすべし〉とはなかなか言えない。ただ、基本的な視座として、やはりそれぞれの立場の中から『ここまでは許されるよね、ここ以上はだめなんだよね』と、自らに判断し、自らに心の痛みを持ち続けていく、そういう姿勢が必要だと思う」

 鳥獣の釣り堀、というのは驚きだ。なるほど魚も同じといえるかもしれないが、魚の釣り堀よりはるかに残酷な雰囲気を持つのはなぜだろう。魚はまた放せば生き返るというイメージがあるからか。鉄砲に撃たれる鳥獣は即、死を意味するからね。それに鳥獣のほうが魚より私たち人間に近いからだろうか。悲鳴や絶叫や逃げまどう姿態がなまなましく想像されるからだろうか。

 161回以来、活発に発言している佐伯真光住職先生がまた登場する。
 「キリスト教でもモーゼの十戒で『汝、殺すなかれ』と説いている。ただ、その殺すなかれ、はすべての生物を殺すなかれという意味ではまったくない。仲間うちの人間を殺すなかれ、つまり、味方を殺すな、という意味です。だから人間でも敵は殺していいということになる。ましてほかの動物は殺してもいい。キリスト教の殺すなかれ、という言葉を東洋の殺すな(不殺生戒)と同じと思っている人がいますがとんだ誤解です。仏教の、殺すな、はすべての命あるもの、さらに無生物界にもおよぶ。ここから〈もったいない〉の思想が生まれ、『紙一枚でもその命を大切にしなければいけない』という考え方が出てきたのは周知のとおりです」

 こどものころ、祖母がよく口にした〈もったいない〉がここから出ていたとは知らなかった。さて、東西の「殺すな」を整理したうえで佐伯先生は仏教の不殺生戒の拡大解釈とその徹底を提言する。

 「日本人は自然をいくら破壊してもなんとも思わない。仏教的雰囲気の中にいながら、自然破壊を平気で行う。こんな点では欧米の人より劣っている。仏教の不殺生戒をほんとうに理解していないと非難されるのでないか。ついでに余談だが、イギリスには昔から熊を犬に殺させるスポーツ(ベア・ベイティング)があった。熊を捕まえて立ち木にしばりつけ、何十匹という犬をまわりからけしかけて、熊を襲わせ、食い殺させるゲームです。人間たちはまわりで酒を飲みながら見物して楽しむ。こんな見世物がイギリスでは流行っていたが、250年前にピューリタンが反対した。熊がかわいそう、というのでなく、熊が苦しむ姿を見て、人間が快楽を感じることがピューリタンの精神に反するからという理由です。19世紀にこのスポーツは法律で禁じられたが、そのときはもうイギリスにたくさんいた熊が絶滅していた。いまもイギリスには熊はいません」

 佐伯先生はなぜこの残酷なスポーツのことを持ち出したのか。「イギリスの人たちには〈かわいそう〉という感覚がなかった。日本語の〈申し訳ない〉とか〈かわいそう〉という日本語にぴったり当たる英語はないのじゃないか」と東西のいのち論の相違にだめ押し発言をしている。
 
ボクはこんな残酷なスポーツがあったとは知らなかった。念のために英語の辞書をひくと、「繋いだり囲ったりしたクマ、イノシシ、ウシなどの獣に犬を噛みつかせて見物する」とちゃんと載っていた。こんな残酷なことを人間は本能的に好きな動物なのだなあ、と改めて思った。英国人だけでない、日本だって闘牛がある。

 キリスト教の〈汝、殺すなかれ、は味方だけだ〉に関連して花山勝友教授の発言。
 「広島・長崎への原爆投下はその思想を具体的に示している。日本の同盟国であったドイツやイタリアには投下しなかったでしょ。キリスト教国だからですよ。日本にはクリスチャンはほとんどいなかったから、敵どころか、動物なみだったんだ。そのことをアメリカ人からいろいろ聞きましたよ」(次回に続く)