164 「魚の活け作り」と「豚の丸焼き」――東西いのち事情

     ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 164

164 「魚の活け作り」と「豚の丸焼き」――東西いのち事情

 人間は動植物を殺して食べ、快適な暮らしのために害虫を殺し、花を殺して飾る。そのとき、せめて「人間の当然の権利」と思わず、「申し訳ない…」と感謝しようという花山勝友教授の発言を前回紹介した。シンポジュウムはこの発言のあと、いのちをめぐる東西(仏教とキリスト教)の考え方の違いが話題になった。

花山教授はニューヨーク州立大学で教えていたころ、アメリカの牧師たちとしばしば「魚の活け作り・豚の丸焼き」論争をしたとつぎのように言う。
「申し訳ない、と思うのは事実だが、この言葉を使うのにちょっとためらいも感じる。アメリカ時代、非常に多くのキリスト教の牧師と話したが、この言葉を使うと必ず反論された。『お前らは生きた魚を活け作りにして、動いているのを食べながら、申し訳ない、と口先でいうだけだ。それはエクスキューズ(言いわけ)にすぎないじゃないか。そんな獰猛な人種のどこが仏教徒か』とやられた。こちらも『お前らだって豚を丸のまま焼いているではないか』とやりかえしたのだが」

これを受けて発言したのが駒沢大学副学長で、東京下谷・法清寺住職の奈良康明さんだ。仏教学者のなかでもっとも動物に関心を持つひとり。
「近所に60半ばの床屋さんがいる。猟が好きで、暇さえあれば鉄砲を持って鳥とか兎を撃ちにでかける。私を見ると『生きものを殺すのはあまりいいことじゃないんですよね。殺生ですよね』といいながら続けている。その床屋さんが2年ほど前から『最近自分が撃ち殺した鳥や兎に追っかけられる夢を見る。若いころはぜったいにそんなこと、なかったんですが。私の仲間たちもみんなそういう。やっぱり年のせいかな』と言い出した。無数の蝶を殺し続けている佐伯真光先生も60過ぎたら蝶に追っかけられる夢を見るんじゃないかな…」

小学校の猫の解剖授業を擁護し、自分も無数の蝶を殺し続けていると豪語した佐伯住職先生(本ブログ162回参照)に小さなジャブを入れた後、つぎのような話を披露した。

その床屋のおやじさんがこの前、狩猟旅行にいった。一行の中にアメリカ人がひとりいた。日本語がうまいので、いろいろ話すうち、牧師さんだとわかった。床屋は意外に思ってこう話しかけた。「私などは猟をあんまりいいことと思わないけど、健康のためとか、おもしろいからしているんだが、宗教やっている人が生きものを撃っていいもんですかねえ」
そのアメリカ人牧師はいとも簡単に「いいんですよ。鳥や兎というのは、私ども人間に狩の楽しみを与えるために神様がお造りになったんだ」と答えた。床屋は奈良教授に「そういうふうに考えていいなら、私もずいぶん気が楽になるんですがね」といったという。

「ヨーロッパ的発想は旧約聖書の創世記に象徴されている。人間に動物や鳥を支配せよ、といった。つまり神―人―動植物―自然、という縦系列です。ところが、東洋的な仏教的な考え方は、人間も兎も鳥も山川草木、無機物も横の関係で、みんな仏性があり、尊いいのちを持つ。宗教的には同等の価値を持って並んでいる。では、なぜ人間は他の動植物のいのちを奪うのか、と問われるとほんとうに困る」

しょせん、人間として生きていく以上、ほかのものの命を奪わなければ生きていけない、仏教的にいえば人間の悲しき業みたいなものがあるという、お馴染みの仏教的結論に奈良教授も落ち着く。ただし、そのまえに牧師にいわせれば〈エクスキューズ〉、花山流にいえば〈申し訳ない〉の儀式を通過する、これもお馴染みのリピートだ。

「欧米流の縦系列だと、動植物も自然も人間に奉仕するために神がお造りになった。だから当然の権利。だが、日本など仏教の横系列はたしかに動植物の命を奪うのだが、そのたびに〈ほんとはね、お前さんの命をとっちゃあいけないんだろうけど、こうやんなきゃ生きていけないんだよ。ごめんなさいよ。かんべんしてよね〉と、じくじたる思いを抱えながら命を奪っていくところに仏教的なというか、東洋的な命の奪い方があるんだろうと思うんです」

こうした考え方の1例として奈良教授はうなぎ供養をあげる。うなぎをさんざん食べてから、祭壇を作って「うなぎの霊よ、安かれ」とお坊さんがお経をあげて供養する儀式。

「私は5人の外国の学者を意図的にうなぎ供養につれていったことがある。5人のうち4人が『ナンセンス』といい、5人めは『まったく理解できない』といった。人間に奉仕し食べられるためにうなぎが神様に造られたものだから、おいしけりゃ食べたらいい、それでおしまい。なのに、さんざんおいしいといって食べてから『ごめんなさいね。すみませんね』はなにごとかと。でも、これは日本人の〈エクスキューズ〉でなく、日本人の心情の〈やさしさ〉、だとおもう。欧米の人はなかなかここの点を理解してくれない」

エクスキューズとやさしさ。どこがどう違うのだろう。しいていえば、エクスキューズには自分の行為を正当化しようとつべこべ屁理屈を並べ立てている開き直りの風姿が浮かび、やさしさには、一歩引き下がって諦めたあとの穏やかな悔いが漂っている、とでもいえばいいのだろうか。(次回に続く)