163 動植物を殺すのは「当然の権利」か、「申し訳ないが…」か

    ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 163

163 動植物を殺すのは「当然の権利」か、「申し訳ないが…」か

 人間の命と人間以外の生き物の命の違い、とりわけ日本と欧米でそれはどう違うのだろうか?  
「仏教といのち」のシンポジュウムの論点はそこに移り、武蔵野女子大の花山勝友教授はつぎのように発言した。この教授も日ごろ、パフォーマンス発言の目立つ人だ。
 「人間は人間以外のものについてもいろいろ序列、差別をしている。鉱物より植物、植物より動物、といった具合に。仏教は生きものを殺していけないとえらそうなことをいいながら、仏や死者を供養するときは花の首をちょんぎってさしあげている。かわいそうに花は首を切られたら絶対に実がならない、永遠にその植物の命は断たれる。こんな矛盾をなぜするかといえば、花は叫ばないし、動かないし、血を流さないからだと思う。ダイコンだって切るたびに血がだらだら流れたら、ちょっと切りにくいでしょ。だから私に言わせると、こういう命の差別は人間が本能的に人間の命から近いものの命を奪ってはいけないと。しかし、絶対にとってはいけないと仏教ではいっていない。要するに〈命を取らないように努力しましょう〉、なんですね。その努力する形が精進料理になっている。動物や魚の命をとらないで、鳴かない、動かない野菜をわれわれは頂戴している。その場そのときの状況倫理に応じて、できるだけの努力をしていこうじゃないか、ということなのです。」

 このシンポジュウムで最初に「状況倫理」という言葉を持ち出したのは前回紹介した佐伯真光・住職先生である。
「仏教の倫理観は結局、状況倫理的なもので、絶対にこうでなければならないという性質のものでない。その状況倫理によって仏教者が行為を決定する場合、動機となるものは何か、そちらのほうがむしろ問題になる」という説明をしている。
これはこれで明快である。キリスト教に比べて、仏教は口先は慈悲深いが実践が伴わない、倫理面、論理面でどうもキリスト教よりあいまいでいい加減だ、理屈だおれじゃないか、いざというとき頼りにならない教義――ボクが仏教についてかねがねそんな印象を受けているのもこの〈状況倫理〉のせいかもしれない。状況の解釈しだいで倫理の基準はどのようにでも変えられる、甚だ都合のいい言葉らしいのである。
 さて、花山教授はつぎに西洋の考え方との比較をとりあげる。
 「〈命を取るのは人間の権利である。なぜなら、神が万物の霊長としておつくりになったから〉と西洋流にはじめからタカをくくってしまうか。〈ほかの命だって生きる権利はあるが、申し訳ないけれど〉と思って殺すか。いい例がゴキブリ。あんな虫だって殺されたいとは思っていない。ねばねばの中で死にたいと思って生まれてくるやつはいない。それでもゴキブリをやっつけないと人間が快適な生活ができないという人間の勝手な論理によってホイホイやゾロゾロの中で殺すわけです。だからそういうときは〈ざまあみろ、たくさんとれた〉と思わないで、〈申し訳ないな〉ぐらいの気持ちを持つべきじゃないか。たてまえでいくら命が大切だと言っても、平気な顔でゴキブリを殺して喜んでいるのはどうかな。子供に言い聞かす時も〈やっぱり命は取らないといけない、しかし、これは権利があって取っているんじゃないよ〉というのと、〈殺す権利がある〉というのとではずいぶん違うのでないかな。」

 「おかあさんは飼っている犬や猫はかわいがるのに、ゴキブリをみつけると大急ぎでたたき殺そうとします」みたいな小学生の作文をよくみかけるが、青木新門さんの『納棺夫日記』はゴキブリ的立場を哀しく表現している。いくつか引用しよう。
 
▼一人暮らしの老人が死後何ヶ月かして発見された。ウジ虫(蛆)は死体を覆い尽くし、部屋や廊下を這いまわっている。
「蛆を掃き集めているうちに、一匹一匹の蛆が鮮明に見えてきた。そして蛆たちが捕まるまいと必死に逃げているのに気づいた。柱をよじ登って逃げようとしているのまでいる。蛆も生命なのだ。そう思うと蛆たちが光って見えた」

▼若い夫婦と子供二人の4人でドライブ中、事故にあい、夫は重傷、助手席の妻は即死、子供たちは無傷で助かった。死者の枕もとで2,3歳の男児を抱いた老婆が見るも哀れに座っており、寄り添うように4,5歳の女児。死者は安らかな顔で眠っているようだ。
 「『おかあちゃん、まだねむっているの?』と女児がふいに言ったため、すすり泣く声が周りでしたかと思うと、老婆が畳を叩いて大声で泣き出した。泣き声と涙の中で納棺を終え、(略)手を洗った湯を裏庭の竹藪に流したとき、何か光るものが目の前を通った。見ると、竹と竹の間を、か細い糸トンボが一匹,弱々しく飛んでいる。止まったところを近づいてみると、青白く透き通ったトンボの体内いっぱいに卵がびっしり詰まっている。数週間で死んでしまう小さなトンボが、何億年も前から一列に卵を連ねて、いのちを続けている。そう思うと、ぽろぽろと涙が出て止まらなかった。」

 命の輝きは、蛆や糸トンボだけでない。青木さんは32歳で亡くなった医師の遺稿集「飛鳥へ、まだ見ぬ子へ」から次の抜き書きをしている。

▼「癌の肺への転移を知った時、覚悟はしていたものの、私の背中は一瞬凍りました。(略)その日の夕暮、アパートの駐車場に車を置きながら、私は不思議な光景を見ていました。世の中がとても明るいのです。スーパーへ来る買い物客が輝いて見える。走りまわる子供たちが輝いて見える。犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が、小石までが輝いて見えるのです。アパートへ戻って見た妻もまた、手を合わせたいほどに尊く見えました」

 買い物客も子供も、犬も、稲穂、雑草、そして電柱や小石にも、この世のすべてが命にあふれ、生き生きと輝く光に包まれていたというのである。
(次回につづく)