162 猫の解剖授業――住職先生の無知・ひとりよがり・はったり三

      ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 162

162 猫の解剖授業――住職先生の無知・ひとりよがり・はったり三重奏 

 ただ生命尊重をいうだけが仏教ではない、という高野山真言宗住職で相模工業大学教授・佐伯真光さんの話のつづき。
 
「考えてみるとわれわれ大乗仏教はつきつめていくと、生命とは自らを存続させるためにほかの生命を犠牲にして成り立っているものであるという深い反省から生まれてきたのでないだろうか。だから仏教はジャイナ教にはならなかった。また、ジャイナ教は大乗ジャイナ教が成立しなかった。真言宗の法要で読む理趣経には〈三界の有情を殺害しても罪にならない〉という個所がある。これについてみなさん、あまり問題にされないが、なぜこんなことが経典に書いてあるのか。つまり、生命を尊重するということは生命を殺すということと裏腹になっているのでないか」

 〈仏教がジャイナ教にならなかった〉というくだりは、160回で紹介した、虫を踏み殺さないため道を掃きながら歩くジャイナ教のようには仏教の戒律が厳しくないという意味だろう。
 〈大乗ジャイナ教が成立しなかった〉。大乗仏教の「大乗」は自分の救済とともに広く他者・大衆の救済をめざすという願いがこめられている。そのためにはときに他の生命を犠牲にせねばならないこともある。これに対し、ジャイナ教や伝統的な部派仏教(小乗仏教)は自分が修行して自分だけが救済されるのが目的だった。だから、このような非現実的かつ超厳密な戒律がまかり通った、と佐伯先生はいいたいのであろう。

ここまではボクもよくわかる。ボクだって確かに肉も魚も植物も、他の生き物の命を頂戴して現実には生きている。お蔭さまで命を永らえている。酒もよく呑むし、けっこう大食漢でもある。むろんときには顔をしかめたり、すまないな、と会釈することもあるが、ジャイナ教徒にはなれない。えらそうなことをいっても、何ものかの命の犠牲を抜きにしてはだれも生きていけない。それがこの世に生存するためのルールであることは認めねばならない。

だが、佐伯さんの発言でお粗末極まりないのはつぎのくだりである。
「長野県の中学校で生物の先生がカエルの解剖をやったというので新聞紙上でだいぶ非難された事件があった。あ、猫、カエルじゃない、猫ですか(笑)。しかし、私などの小学校時代にはしょっちゅうカエルの解剖をやらされた。それだけ世の中が変わってきたのかもしれないが、私としてはやはりそういう教育も必要悪として意味があるという感じはぬぐえない。昆虫採集をすることが逆に生命の尊重を教えることになっているという私の実感からも、必ずしも猫の解剖をした先生を責められない気持ちがある。昆虫採集をしていると、昆虫の生活、生命のことをいつも考えるようになる。夜中に目を覚めてもいまごろ、蝉はどんなところでどんな過去九をして眠っているかなあ、などとおもう。虫というものに関心のない人はそんなことは考えもしないだろうとおもう。」

本ブログの動物実験シリーズ(69回〜129回)を読んでくだされば、この発言がいかに「無知」と「ひとりよがり」と「はったり」の3重奏であるかがよくおわかりのはずだ。公式の場で発言する以上、少しは動物実験の関係文献に目を通し、現場の実情をちらっとでも見聞きし、自分の頭で常識を働かせてみなさいよ。そうすれば、「無知」と「ひとりよがり」は避けられたろうし、こんなスタンドプレーまがいの「はったり」パフォーマンスを人目に晒すこともなかったろう。こんな事例がひとつあると、今後この住職先生の言うこと、書くことに、つい、こちらも色眼鏡を使ってしまうではないか。

悪口に字数を割き過ぎたようだ。ごくごく簡単に問題点を整理しておこう。
世界の医学界は動物実験を廃止もしくは抑制する方向へ動いており、当面、つぎの3点が合意されている。?実験に使用する動物の数を減らす?動物の苦痛を減らす?動物に頼らない代用物を工夫する。これは英語の頭文字をとって<三つのR>と呼ばれていて関係者の常識である。

この流れに沿って一流国立大学医学部でさえ、動物実験をせずに卒業するケースが増えている。その証言事例は本ブログ71回を参照されよ。動物実験をとくに必要としない分野がどんどん増えているのだ。
医学部学生でさえ、なしですませる動物実験なのに、なぜ小学生に必要なのであろう、まして、マウスでなく、もっと高等で複雑な命と心の仕組みをもつ猫を、である。そしてその教員の授業は動物実験をしなくてならないどんな条件があったのか、教員はどんな経験と資格を持っていたのか、猫の痛みを抑えるどんな措置をとったのか、逆にその実験に拒否反応を起こした小学生たちの心のケアをどう考えていたのか。それらについて住職先生はなにも触れていないし、シンポジュウムにご出席の仏教学者さんたちも関連発言ゼロである。なにも感じないのかね。いのちをもっとも大切とする仏教のセンセイたちのレベルはこんなものかね。

先般、母親のおなかの中に何があるのか知りたいと思って、母親を殺し、おなかを割く実験をした少年の事件があったっけ。人を殺すとはどういう事か経験してみたくてという殺人も相次いで報道されている。浮浪者なら殺してもいいとおもった、という事件もあったね。願わくば、猫の次に人間を実験する小学校や教員や住職先生があらわれないようにと祈る。

ついでにもうひとつ。この住職先生は50にもなって昆虫採集が趣味で、殺した虫は数知れず、と自慢しているが、何歳まで虫を殺し続ければ、虫の何がわかってくるというのかね。