161 「不惜身命」(命を惜しむな)――虫を殺してなぜ悪い?

     ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 161

161 「不惜身命」(命を惜しむな)――虫を殺してなぜ悪い?

 中村元・東大名誉教授の基調講演はつぎのように終わる。
 「原則として西洋の宗教には近世まで動物愛護という思想はなかった。その後、生活が豊かになり、人間が落ち着いてきて愛護の考えが現われてきたわけです。日本人は犬をあまり大事にしないとイギリス人はキャンキャンいっていますが、これは彼ら自身の生活を基準において判断していることです。動物実験に対する反対運動というのもイギリスで起きているようです。これを徹底的にやると、医学は進歩しないことになるかもしれません。」

 「西洋で動物にまで共感同情を示すという思想は、ギリシャにあった。ギリシャには輪廻思想を抱いた人もいた。しかし、主流にならなかった。ところが近世になって、動物愛護はまるで西洋が本家みたいなことを言い出した。東洋のほうがもともと圧倒的に強かった。いや、東西を問わず、人間には本来仏性がある、尊いものがあるということです。生きとし生きるものに慈しみをもつということ。」

 中村先生はここで、最古の仏教経典『スッタニパータ』のなかの『慈しみの経』の有名な個所をあげ「これが仏教の生命観の根本である。生命の愛惜の理想というものは、ここに尽きている」と結んでいる。

慈しみの経からーー『いかなる生きもの、生類であっても、おびえているものでも、強剛なるものでもことごとく、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようとするものでも、一切の生きとし生けるものはしあわせであれ。』

 この基調講演についてボクの感想は、大先生にしては少しおおざっぱだな、という感じ。時間がなかったのか、それとも動物保護にそれほどの関心を抱いていなかったのか。ただ、以前、「動物実験廃止・全国ネットワーク」「地球生物会議」代表の野上ふさ子さんから「生前、中村先生は、『自分の意見としては動物実験は廃止すべきです』、と明快に立場を明らかにされた」と聞いた記憶がある。あの厳しい野上さんが条件抜きで中村先生を評価していた。

 基調講演に続いて、仏教大学の水谷幸正学長(当時)が議論の誘い水としてつぎのように問題提起をしている。
「命の尊さとは人間だけが対象なのか。シュバイツアー博士の『人間は生きんとする生命に取り囲まれた生きんとする生命である』という言葉もある。命の尊さを人間だけに限定してよいのかどうか。あるいはすべての生物、動物にもわたるものか。もしそうなら、尊さの中身に程度の差があるものかどうか。」
 
 討論に移り、高野山真言宗の住職で相模工業大学教授の佐伯真光さんが次のように発言している。かつて山本七平さんとの論争で話題をまいた人で、とかく過激できわどい発言が得意らしい。(肩書は当時。以下、他の発言者も同じ)

 「私はこのテーマのシンポジウムに出る資格がなさそうだ。小学生のころから昆虫採集に熱中し、いまもこの趣味から逃れられない。今までに殺した昆虫は数知れずで、命の尊さなど申し上げる資格はない。私の趣味が2人の子どもに伝染して、私は得意になって昆虫標本の作り方を教えました。私は虫を数知れず殺してきたが、だからこそ自然や自然環境によけい関心を持つようになった。いまのように全然虫を殺したこともない、触ったこともないような人たちにどうして生物のこと、生命のことがわかるのかという感じを持っている。日本の自然保護論者、動物保護論者、野鳥保護運動の指導者はほとんど例外なく子どものころ昆虫採集をしてさんざん悪いことをした人たちだ。この論理を押し詰めていくと、生命の尊さを教えるためにはまず子供のころに生物を殺すべきじゃないかとさえ思う。」

 逆説的な飛び出しである。さらに佐伯さんは基調講演に先立つ、埼玉工業大学の武藤義一学長の会議趣旨説明にも言及した。
その趣旨説明は「キリスト教は宇宙創造の神をいちばん尊いものとして崇めている。それに対して仏教の説くもっとも尊いものは人の命だ。しかし、私自身は子どものころ、自分の身を殺して法を聞く、雪山童子の話を教えられた。また、私は戦争中に陸軍の中学に入ったが、はなむけに『大丈夫、剣をとる』とか『不惜身命』(命を惜しむな)と和尚さま方に書いていただいた。生命尊重と命を惜しむな、はどういう関係があるのだろうとずっと疑問だ」という内容。

不惜身命は「菩薩、求道者が大衆の救済のために自分の身命をなげうつこと」という仏教用語だが、これも取り込んで佐伯さんは「ただ生命を尊重するのが仏教であるというだけでは済まない問題がある」と弁じ立てた……。(次回に続く)