160 仏教学者の「動物のいのち」シンポジュウム・基調講演から

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 160

160 仏教学者の「動物のいのち」シンポジュウム・基調講演から

 仏教は人間であれ、動物であれ、虫けらであれ、生きとし生きるものの命を奪うことをもっとも重い罪に定めている。ところが、それは口先だけで、日常の動物保護活動は他の宗教団体よりだいぶ怠慢、鈍感ではないか、というのがボクの実感だ。阪神大震災のときも組織だった動物保護活動はみなかったし、なにより2次世界大戦のときの軍部への協力ぶり(敵・味方双方の人命を軽視)は、恥ずかしい限りだ。仏教の学者先生たちはそのあたりどう思っているのだろう。

 そんな折、古書店で「いのちを教えるーー仏教者からの提言」という本をみつけた。もう20年以上前になるが、京都で開かれた日本仏教文化会議のシンポジュウムの記録である。内容は概して常識的、建前論、でとくに目新しい印象は受けないが、著名な仏教学者が一堂に集まって命をテーマに話し合うのはめずらしいことらしい。ところどころホンネらしいものもこぼれている。ボクのような門外漢が「仏教と生きもの」の関係を興味本位に読み飛ばすのに便利だ。

 会議の冒頭に同文化会議の議長であり、世界的な仏教学者で知られる中村元・東大名誉教授が基調講演をしている。いのち、とりわけ動物に関する個所を要約してみよう。

「世界にもいろいろな宗教があるが、命の尊さを教えるという点ではもっとも仏教が進んでおり、完全だといえると思う。他人の命は尊重し、傷つけたり、殺してはならないと仏教は教える。なぜ人を殺すのはいけないか。すべての人は自分の生命を愛している。だから、自分に思い比べて他人を殺してはならぬ。また殺さしめてもならぬ。他人の身になって考える。自己を守る人は、他人の自己も守る。だから自己を守れ、というわけですね。ただ、エゴイズムを主張するだけでは人間の苦悩はなくならない。それを高い立場から見通すことが必要だ」

「自己とか他人は相互に連関・限定しあって成り立っている。他人あってこそ自分が成り立つ。相互に依存しあっている。これを『空』とか、『縁起』と表現します。だから人を殺生してはならない」

なるほど空とか縁起とか、仏教の大きな教えと関わって、殺生を禁じる道理がわかってくる。さらに、殺生をしてはならない対象は人間だけでない。そこが人間オンリーのキリスト教と異なる点だ。
「生命を尊重するといっても人間の生命だけを尊重すべきであるのか、あるいは範囲を広げ動物の生命まで尊重すべきであるのか。仏教はもともと人間に近いものも決して殺さないように努めるべきだという立場です」

「とくに徹底しているのは同じインドの宗教、ジャイナ教。動物を食うために殺してはならない。だから肉食をしない。ジャイナの修行僧は道をほうきで掃いて歩く。路上の虫をうっかり踏んではというわけです。そのほうきも、竹だと虫を傷つけるのでやわらかいもので作ってある。暗いところでご飯を食べるのもいけない。ご飯についた虫をうっかり食べてしまうから。谷川の水も飲んではいけない。その中にいる虫を飲み込んでしまう……・ただ、こんな戒律を窮屈に解釈して文字通り実行すると困ったことになってしまう。仏教はその点、ごく柔軟性のある態度をとっています。」

この〈柔軟性のある態度〉というのがくせものなのかもしれない。仏教お得意の、戒律はあれども名前だけ、というやつかな。まあ、それはともかく先を急ごう。

「動物にまで生命の愛惜を認めるという思想は基本的に西洋にはありません。ただ、キリスト教の伝統とは無関係にやはり人間に近い動物には同情みたいなものが人間の内にひそんでいるのでないだろうか。その例としてよく引かれるのが聖フランチェスコが鳥獣に対しても教えを説いたという話。けれどもこれにはオールダス・ハックスリーがフランチェスコは決して動物愛護主義者でなかったと反論している。たとえば、彼の教会で世話していた病人が豚肉を食べたいといったので修行僧が豚の足を折ってもってきた。そのとき、彼は豚を殺傷したことを非難せず、教会の財産(豚)を不当に傷つけたと非難しただけだったという。だから動物愛護とはちょっと違う。」

このほかキリスト教の一派で異端とされた(フランスのカタリの徒)は動物愛護の気持ちをもっていた。だからキリスト教主流は異端審問のとき、カタリの徒であるかどうかをチェックするとき、ニワトリを与え、即座に首を締めたものは信仰が正当だと許され、「かわいそう」と躊躇する人間は異教であると火炙りにされた、などと中村先生は述べている。

大先生ながらこのあたりは、ちょっとこぼれ話風だ。小話みたいである。ただ、このあとまじめな結論が語られている。長くなったので、次回にまわそう。