156 生老病呆死(29)科学はhowを 宗教や哲学はwhatを問う

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 156

156 生老病呆死(29)科学はhowを 宗教や哲学はwhatを問う

哲学でいう「神」は、無機的で、人間と関係なく考えられる存在だが、キリスト教の「神」は人間や世界との関わりの中でのみ存在する。これがキリスト教の神の第一の性格づけで、第二の性格はその神の本質は「愛」ということだ。愛には相手がいる。それゆえ神は自分の前に愛の対象である人間や世界を置いた。天地はこのように創造された。人間も世界も偶然に出てきたのではない、非人格的なものでもない。そこには神の人格的な愛の意志が宿る。――これが神学者・北森嘉蔵の「神と人間と世界と宇宙」の相関図である。

この相関図が本当かどうかはだれも証明、保証できない。世界的神学者北森さんがそう考えておられるだけである。現代は一般の物事の真偽は科学を物差しにする。そういう現代人から見ると、「むかしむかし、神様がいて、その神様は愛の神で、愛する対象ほしさに人間を創りました。」はいかにも矛盾だらけだ。

ここのところを北森先生は哲学者プラトンやカントを登場させて論理的にさばいていく。その際、有効なキーワードは「科学はhowを 宗教や哲学はwhatを」受け持つという役割分担である。

そもそも科学は実際に証明できることしか語れない。例えば〈ビッグバン〉理論にみられるような、宇宙はどのようにして生成してきたか、など現象面についてなら説明できる。How「どのように」という問いは科学の得意分野だ。
だが、宇宙の誕生や人間が生まれてきたことにどんな意味があるのか、その本質は何か?というwhatの問いには沈黙するほかはない。答えられない。「意味・本質」の問いは苦手であり、担当外なのである。
逆に哲学と宗教はそこに強い。物事の意味・本質を究明することが本来の受け持ちである。

そして北森先生は哲学の原点に立つプラトンを引き合いにだす。
プラトンはたとえば、ここに目に見える机がある、しかし机の意味・本質というものは別のどこかに隠れている。表に姿を現わしている現象の背後には表に現われてこない隠れた意味・本質があるのだと説いた。
ということはつまり、ーー現象としての机は見る、触ることができる。これは科学でも説明できる。しかし、その背後に隠された意味・本質は見たり、触ったりすることはできない。科学では説明できない。たとえば愛というものを神の意味・本質とすれば、どうなるだろう。愛は確かにあるのだが、見えないし、触れない。匂わない。科学が用いる認識方法では無いことになる。科学とは違う方法でないとわからない、というしだい。

次に近代の大哲学者カントが登場。
彼の有名な『純粋理性批判』は科学の限界を明らかにしている。科学は人間の理性が生み出したものだが、科学が権利をもっているのは表に現われた現象や経験の分野だけ、それを超えた領域には限界をもつとしている。
さらにカントは現象や経験を超えた領域は科学に代わって「信仰」が担当するといっている。北森先生によると、カントの有名な言葉に「自分が『純粋理性批判』を書いたのは信仰に位置を与えるためであった」というくだりがあるという。「これはカント哲学の基本構造であり、近代精神というのはここから生まれた」とまで北森先生は書いている。

だから太陽系の宇宙が生成するのに科学は何十億年も要したといい、聖書は6日間、といっても矛盾を感じることはない。例の「how」と「what」の違いだから、と北森先生はこともなげである。科学漬けになっている現代人のひとりとして、ここまではよくわかり、考えさせられるが、しかし、このあと、先生はwhatを舞台に独り歩きする。神と人間は別格で、その他の植物、動物、物質をことごとく差別扱い。動物を人間のためのツール、食料とみなして恥じないところは多少、動物保護に関心を持つ者として見過ごせない。なにしろ、見えない、触れない隠れた領域を個人的に判断するだけだから、向かうところ敵なしである。そのうえで、自説に正統性、中立性をもたせようと、宗教よりは少し科学に近い哲学分野のプラトン、カントに一役買わせているのだ。

宗教と哲学は濃い親戚関係にあるが、哲学者松浪信三郎は著書『死の思索』のあとがきにつぎのように書いている。

「私は死についての思索をすすめるのに、あくまでも哲学の限界内にとどまることを、自分自身に課した。宗教はわれわれの思いを、死のかなたへいざない、また、死のかなたからの消息を、われわれに聞かせようとする。これに反して、死についての思索は、死の手まえで踏みとどまる。私の思索は、死についての、いわば内在的な・現世的な思索である。哲学の眼から見れば、いずれの宗教も絶対的ではありえない。既成の諸宗教はすべて相対的である。」

松浪先生に異議を挟むと相対的なのは宗教だけでない。哲学を含む一切の学問領域は相対的ではないか。哲学は諸説が入り混じって構成されており、唯一絶対といえる考え方は何ひとつない。科学だってその歩みを振り返れば訂正の歴史だ。ただ宗教はこの世とあの世、見えないもの、触れないもの、と守備範囲が広いぶん、より相対的であるとはいえるだろう。自説を進めるにあたって一層の抑制と自己検証が求められるゆえんだ。

それなのに創世記をバックにした北森先生の「人と動物」の記述にはそれがまるで欠落している。一足飛びに我田引水に結論付けている。まさかこれが神や聖書の真意ではあるまい。(次回に続く)