149 生老病呆死(22)三つのエピソードで綴る「イエス同伴者論」

     ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 149

149 生老病呆死(22)三つのエピソードで綴る「イエス同伴者論」

作家・遠藤周作は持論の「イエス同伴者論」を、たとえばつぎの3つのエピソードで説明する。いずれも病気がちだった遠藤の入院中のできごとだ。

入院した夜、春一番が吹き荒れた。窓がガタガタ鳴る。病気は重く、これからの永い療養生活を一人ぽっちでやらねばならない。心細くてなかなか寝付けなかった。消灯時間も過ぎた午前零時過ぎ、風に乗って獣の吠えるような声が聞こえてくる。病院の実験動物が鳴いているのかなと思った。

翌朝、体温を計りにきた看護師に聞くと、肺癌の患者のうめき声だという。当人は医師で自分の病気を知っている。しかも末期癌でモルヒネも痛みを抑えることができない。だから夜中になると、あのようにうめくのだそうだ。「本当にお気の毒だけど、麻薬の効果もないし、どうすることもできない」と言った。
医師も看護師も手のうちようがないが、ただ、ひとつだけやっていることがある。それは看護師が交代で患者の手を握ってあげる。すると、うめき声は少しずつ静かになっていくという。

この話を聞いたとき遠藤は、そんなバカなことがあるものか、と思った。モルヒネを打っても痛みに耐えかねるような患者が手を握られただけでおさまっていくようなことはあるはずがない。

春が過ぎ、夏になった。
遠藤が窓から外を見ていると、向かいの病室で寝たきりの患者が紙でしきりに口をぬぐっている。紙には血がついていた。掃除のおばさんに聞くと、白血病患者で、歯茎から血が出始めるともう永くないと言った。患者の奥さんはまだ若くて、白いエプロンを着て病院の厨房で食事をこしらえているのをときどき見たことがあった。
遠藤は、自分の夫の死が迫っているのを知った若い妻は病室でどうふるまうのだろうか、と好奇心に駆られて、ときどきその窓を観察していた。
ある夕暮れ、窓の向こうでベッドにあおむけになった夫の手を奥さんがじっと握って動かない姿が見えた。若い夫婦は手を取り合って2人を引き裂く死に抗おうとしているのだな、と感じた。どうしようもない人間の死と悲しみに対して、必死に耐え、抵抗している。

それから1年半。遠藤自身が手術を受けた。術後の痛みに耐えかねて、さかんに「痛み止めに麻酔薬を打ってほしい」と叫んだが、中毒になるといって打ってくれない。そのとき、看護師さんが遠藤の手を握ってベッドの横に座ってくれた。するとどうだ、「あなたは信じられないかもしれないが、痛みが少しずつ鎮まってくるではないか」

これらの出来事を通じて遠藤はひとつの〈真理〉に気付く。
人間の苦痛というものは、その半分は精神的な「孤独感」で構成されている。歯痛で眠れない夜を思い出してみよう。全世界で歯の痛い人間はごまんといるが、歯痛に苦しむ夜は自分だけが歯が痛いと思って苦しむのでなかろうか。
これと同じようにある不幸にあった人は、必ずひとりぽっちでそれを悩んでいる、と思い詰めている。これは精神的、肉体的を問わず、苦痛の原則だ。
肉体的な苦痛の場合、だれかがじっと手を握ってそばにいてくれれば苦しみの50%を占めている精神面の孤独感はなくなり、肉体的苦痛だけになり、痛みは半減する。だから手を握ってもらえば、痛みはだんだん鎮まっていくのだ。
そのことを遠藤は自分の体験を通してわかったといい、「イエスは病いに苦しんだり、悲しみに打ち沈んだ人々の横にいて、つねに手を握った。人間の孤独感を分かち合おうとした。この行為こそ、イエスが病気を治したということ以上に、奇跡物語の本質的な問題」と書いている。

なんだか騙されたような気がしないでもないが、じつはボクはこの原則を実際に適用してみたことがある。父の死が刻々とちかづいているとき、ボクは赴任先へ戻らねばならなかった。末期癌の父は痛み止めを打ってもらって、うつらうつらとしている。戦地をさすらっている夢を見ているのか、軍歌を口ずさんだり、ときどき目を覚まし、「ここはどこだ」などと口走る。冬の日差しの中の病室でほかに人はいなかった。ボクは遠藤のこの文章を思い出し、父の痩せた手を握りしめた。父が決して孤独でないことを伝え、あわせて安らかな旅立ちを祈った。父の反応はなかったが、いまもあのひとときを思い出すと、心が和む。積年の親不孝をあの短い時間が帳消しにしてくれたに違いない、そんな虫のいい満ち足りた気分になるのである。(次回に続く)