146 生老病呆死(19)ある死刑囚の3つの顔

      ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 146

146 生老病呆死(19)ある死刑囚の3つの顔

作家加賀乙彦さんはカトリックの洗礼を受けた動機を3つあげている。
1つは科学とは次元の違う「比較や疑問を超えた世界」の中へ。

「自分はこどものころから物事をよく比較し、例えば釈迦とキリストはどちらが偉いとかなど、あれこれ疑問の多い性格だった。キリスト教にもたくさんの疑問があった。58歳の秋、夫妻で4日間、神父を質問攻めにする会をもった。3日めのお昼前、ふいに質問がなくなった。質問自体がむなしく思われてきた。心地よい喜悦とともに、風にとろけていくようなふしぎ感覚が漂ってきた。なにかにとりつかれたような状態のなかで、〈信じる〉とはこういう状態に近いのでないかと思った。それは科学とは別の次元の精神の動きで、58年の人生で初めての体験だった。」という要旨。

ふいに質問がなくなった、というのは、神父さんがいちいち納得のいく回答をしてくれたから、というのではないだろう。質問とか正解とか、そういうレベルを超えた、ある境地が突然開けたというのだ。それは精神科医として勉強してきた人間の心の働きとは異質なものだったというのだ。
これは141回に書いた「跳躍のイメージ」にあてはまるのだろう。価値観の転換といってよい。

2つは、加賀さんが東京拘置所医官のとき、出会った死刑囚を通じて人間の心の広大さと複雑さを知った。

:死刑囚は慶大卒の証券マンだったが、バーで人を殺した。逮捕されたとき彼は記者たちに「人を殺していけないということを大学で教わらなかった」とうそぶいた。

:その後彼は改心し、キリスト教に入信し洗礼も受けた。当時無神論者の加賀さんは彼に興味を持ち、付き合いを深めた。15年以上の交流のあと、彼は処刑された。大事な友人を失った思いで加賀さんの悲しみは大きかった。死刑囚は処刑の前夜、信仰を裏付けるような長い手紙を加賀さんに書いていた。信仰のすごさに感動した。

:彼はほかの人とも文通をしていて、自分の死後、加賀さんにみせてもいい、と伝えていた。600通にものぼるその手紙には、やんちゃで、ひょうきんで、ナイーブで、しなやかで、加賀さんの知らない別の顔があった。人間の底知れぬ広がりにショックを受けた。

:さらに彼は遺言で、加賀先生に渡してほしい、と獄中に書いた手記を母親に託していた。そこには、行いすました信仰深い第1の彼でもなければ、やんちゃでしなやかな第2の彼でもない、悩み、もがき、苦しみ、信仰に疑いを持ち、神を呪い、神父の悪口も書く第3の彼がいた。

加賀さんは1人の死刑囚に3つの側面を見て自信を失った。人間というものはとてもわからない。わかったつもりでいても、まだわからない面がある。人の心の広さ、大きさ、多面性にうちのめされたのだ。それはあの少年の日の、宇宙の永遠と無限に通じるイメージでもあった。

加賀さんはこの死刑囚をモデルに小説「宣告」を書いた(前回参照)。死刑囚が神父の導きで信仰を得、牢獄の中で平静な気持で生き、処刑されるとき、自分を洗礼に導いた神父や、母親、愛する女性を思って死んでいくという話。発表すると評判になったが、作家遠藤周作さんと会ったら、「君には本当の信仰はないね。本当の信仰のある人間は、あの主人公のような心の動きはしないものだよ。主人公はまだ信仰の一歩手前にいる」といわれた。

なぜだ!?
遠藤さんは「あなたは洗礼を受けていないからだ。洗礼が信仰を左右するということがわかっていない。宗教にはそういう世界がある」と説明した。心だけでなく、行為として何かをしなければ到達できない、ということを加賀さんは教わったのだという。これが3つめで、こうした経緯を経て加賀さんは洗礼を受け、その際遠藤さんが代父を務めたのだった。

なぜ、洗礼という儀式を受けないとほんとうの信仰がえられないのか。キリスト教信者でないボクにはこの理屈がまったくわからない。おしなべて冠婚葬祭なんて、そんなに重要なものなのだろうか。いや、当の加賀さんだって別の個所で「洗礼を受けてもその後の人生は平らかでなく、何度か困難な状況に陥ったこともある。文学的な行き詰まり、家族の不幸もあった。」と書いている。ただ、そういうとき、深夜ひとりで必死に祈っていると、かつて神父と話した時の喜悦の気持ちがひょっこり出てくることがあるという。(次回に続く)