144 生老病呆死(17) 曽野綾子がシナイ半島で見た生死の境界

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 144

144 生老病呆死(17) 曽野綾子シナイ半島で見た生死の境界

岸本英夫教授があげる「永遠の命のイメージ」4類型の2番目は「死後における生命の永存を信ずるもの」である。これはキリスト教、仏教などの宗教、さらには宇宙生命への還元、あるいは唯物的な生死観、不可知論などを含め、もっともバリエーションに富む。

●肉体は滅びても霊魂がある。
この考え方は原始宗教の中核だった。信仰と理想を織り交ぜてさまざまな彼岸世界、未来世界が描き出されてきた。これらの世界のイメージには例えばーー。

:肉体を離れても霊魂はこの地上に存続し続ける。人魂などがそれである。
神道の霊魂観。
:仏教の輪廻観。

キリスト教ユダヤ教の天国と地獄。仏教の西方極楽浄土
ここで語られるのは単に生命の存続だけでない。この世では報われなかった人、悲惨な死を遂げた人も、信仰によってあの世では幸福で永遠の命が約束される。逆に悪で富み栄えた人は地獄の炎が待っている。この考え方によれば、死とはーー。

:死の意味が変わる。死を境に無限の霊的生命が続く。
:この世はあの世で再会する日までの、しばしの別れに過ぎない。つまり、死は生命のあり方の、1つの切り替え時となる。
:この世は永遠の命の1部分にすぎない。死後の理想世界へ移るまでの仮の宿である。
:この世は死後のよき命を得るための善を積むための、いわば道場で
ある。あるいは死後の永遠の命を約束された感謝の舞台といってよい。

この考え方の典型例をクリスチャンの作家曽野綾子さんの文章から引いてみよう。

「私たちは、この世を幼い時から、永遠の前の一瞬と教えられた。或いは『短い旅』という表現を聞かされた。この世は『仮の宿』でもあった。それゆえ、よき状態を望みつつも、現実は不完全でも致し方なかった」

 このあとに、シナイ半島の世界最古の修道院サンタ・カタリナの僧坊に泊まったときの様子を記している。荒涼たる山中に小さなお堂があり、1人の老僧が堂守をしている。中には石塊のように積まれた頭蓋骨や死体の山があり、異臭を放っていた。それは昔から今までこの修道院で生を終えた修道僧たちの遺骸だった。あたりには人家一軒もない。
「自分も間もなく死んでこれらの友たちの中に入る。これら白骨の人たちは死んでいない。今も我々の心の中に生きており、現世の我々もすでにこれら死者たちの中に半ば混じて暮らしている」と老僧は言った。

曽野さんは結びにこう書く。
「この険しく聳え立つ山中に、一生を何を楽しみに、この修道僧たちは生きているのか、と思う人も多かろう。しかし現世が、永遠の前の一瞬であるなら、永遠の死後の世界のためにのみこの生を備えるのは、本当に賢明な人々のやることなのかも知れなかった。」

ボクには凍りつくようなシーンだが、救いの手を差し伸べるように曽野さんはこうも書いている。
 「私は永遠の前の一瞬に過ぎない生を、でき得る限り、楽しみ、考え、旅をし、時を濃厚に使いたい、と考えはした。その意味で、宗教は、人間を一種のどんよくな享楽主義者にするのではないかと思う時もある。しかし同時に、私は,1度は経なければならない生と死の間の接点、橋渡しをうまくやりたいと考えてはいた。」

 享楽主義者というイメージは、おもしろい。以前、書いたが、若い頃、京都天竜寺の塔頭にしばらく寝泊りさせてもらったことがある。お坊さんたちにも接したが、祇園遊びの話などを禅問答めいて披露するのが、わざとらしく愉快でなかった。それに比べて、曽野さんのこのくだりは率直で簡明だ。

ただし、つぎの唐突な共産主義批判のくだりはあまりにも甘い。
キリスト教共産主義の差は、前者は現世に理想社会が来ることを全くあり得ないと思うのに対し(理想社会に近づけるように努力を怠りはしないが)後者は理想社会がいつかは比較的近い時期に現実に来るかの如く言うところである。私はその点で、決して共産主義の甘さを信じない」
 
これに限らず、曽野さんの勉強不足と思われる安易な甘い共産主義批判が出回っている。何か個人的な事情があるのかもしれないが、もう少し社会科学全般を学ばれてから口出しされたらいかがであろう。曽野ファンの1人としてこの1点を惜しむ。
(次回に続く)