141 スポーツにルール、茶道に心得、宗教に「イメージの跳躍」

    ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 141

141 スポーツにルール、茶道に心得、宗教に「イメージの跳躍」

念仏を唱えれば「即座にこの世で」往生できる、極楽行きが決まる、いや、じつはもう極楽にいるのだよ、などと親鸞はあちこちに書いている。この個所はどうもよくわからない。そんな簡便な極楽行きの方法があるのか。

本多顕彰さんは親鸞の和讃『愚禿悲嘆』を引用しながら、それは簡便なのでなく、長い苦悩の末にたどり着いた安らぎ、絶望のあとの希望なのだ、を説いている。

浄土真宗に帰すれども…… (略)」(他力のほんとうの信心に帰依しても真の信心はない。嘘で固めた私の身には、浄らかな信心も少しもない)

「悪性さらにやめがたし…… (略)」(私の悪い性質を除くことはできない。煩悩が混じるので、修業も偽りになるのだ)

これらは親鸞が88歳の時の作で、2年後に親鸞は死ぬ。この最晩年にあっても、彼は自分の醜さを責め、苦しみ、悩み続けている。

本多さんはいう。
「その嘆きが深ければ深いほど、他力にすがる心は大きくなる。他力の慈悲は大きくなる」
「信ずるものと信じないものとの相違は、なんとはかりしれないほど大きいことだろう。信ずる者も悪夢を見る。けれども、さめたときには、おのれが如来の慈悲の大船の中に眠っていたことを知り、大きく安堵の吐息をつくだろう。信じない者は悪夢から覚め、悪夢よりさらに幾千倍もおそろしい現実の深淵が足下にひろがっているのに気付く」

このあたりは、抹香くさく、形式的、観念的な説教調で、ボクは苦手だ。要するに親鸞のいう「即座に」は、その前にさんざん苦しんで、悩んで、そのあげくの果てにある日、突然降ってくる光のような「即座に」なのだろうか。チラと悔いて、またチラと以前の自分に気軽に戻っていく。その束の間に、ちょいと1回念仏唱えたから、《さあ、どうだ、永遠の極楽へつれていけ、》というのではないようだ。
「即座」の前に真摯な苦闘がセットになっている
苦闘から安らぎへ。その変換の仕組みを日常の具体例で見せてもらえたらありがたいのだが。宗教書にはそれがない。宗教の「使用前」と「使用後」がポンと投げ出されている。双方をつなぐつり橋が隠されている。

阿満利麿さんは著書「無宗教からの歎異抄読解」で、「宗教の世界には常識のままでは理解が難しい一面がある。普段のものの考え方を一度保留し、日常の考え方も『1つの考え方』にしかすぎなかったのだという、新たな認識が要求される」と書いている。なるほどとうなずいた。

宗教の門をくぐるには、どこかに日常性を超えた飛び道具のようなイメージの跳躍を受け入れねばならないのだろう。スポーツのルール、茶道の心得、マナーのようなものだ。ボクは何につけ門前で屁理屈をこき、批評するタイプだ。これだとスポーツする醍醐味はいつまでたっても味わえまい。とにかく門をくぐることにしよう。
普段の暮らしの素材で、宗教による跳躍と変換を具体的に示してもらえるとありがたいのだが、これがへたをすると、オカルトばりの新興宗教の御利益ストーリーに堕落してしまうのかもしれないな。

親鸞研究で定評のある吉本隆明さんはこんな趣旨のことを書いている。
 「信じて念仏を称えたら浄土へ摂取されるーーここがいちばん難しいところ、微妙なところだ。親鸞が考えたでろうとおりに再現したいというのは、親鸞研究家や浄土教の研究家や、信仰者の最後の願いだ。親鸞は当時、世界的な規模の思想家だった。しかし、現在、学問や知識や理論からいくら接近しても、この思想を説明できない。あれこれ懸命に論理的に説明しているうちに、それがいかにもつまらない解説、解釈をしているように思えてくるのだ。」

吉本隆明のような大思想家でもこんなに手こずっている。ボクのような考えの乏しい、言葉の少ない者が、おおそれたことはやめよう。ただ、吉本隆明さんは、繰り返し親鸞を説いている。信仰はしていないと断りつつ、思想家としての親鸞にこだわり続けている。近いうちに吉本さんの膨大な親鸞研究のはしっこをかじらせてもらいながら、ボクの印象記を気まぐれに、こまぎれに、休み休み、綴らせてもらおう。