139 念仏だけであとは、なにもしなくていい、ほっとけの仏教!?

    ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 139

139 念仏だけであとは、なにもしなくていい、ほっとけの仏教!?

 ひろさちやさんも、やっぱり歎異抄4条の「自分が念仏して、自分が仏となって、大慈悲心で、思うがごとく衆生を利益する」のくだりはよく納得できなかったと書いている。でも、最近すこしずつわかってきたといい、つぎのような例えをあげている。

 「私たちは、病人が不幸で、健康が幸福と思っている。けれど、健康で浮気して家庭をめちゃめちゃにする人もいる。病人は浮気できないだけましかもしれない。だから、幸せな病人になることはできる。仏様の救いというのは、病人は病人のまま幸せになれる。幸せな生き方ができるということに気付かせてくださる。略。それがほんとうの救いだ。それを気付かせてくれるのは仏様の働きかけがあるからだ。スーパーマンのような存在になって、次から次へと衆生を救うということではないのだろう。自分が仏となって、衆生に働きかけて、一人一人がどんな境遇であっても、「ありがたいな、よかったな」と気付かせていくーーそういうことを述べているのだと思う。」

 さらに、親鸞の晩年の言葉「自然法爾」や、日本曹洞宗の開祖・道元(自力の禅僧)の言葉「現成」にも触れてつぎのように書く。

 「私たちがいくら努力しても救えない。すべてが仏様のわざなのだ。仏様におまかせする以外にない。おまかせするといっても、自分がおまかせするのでない。仏様が私たちにそういう心をおこさせてくださるのです。おまかせするとは、目の前に苦しんでいる人がいたら『私に仏様はどうさせようと思われているのだろうか』とサイコロを振るようなもの。『恵んでやりなさい』と出たら、恵んでやればいい。『ほっておきなさい』と出たら、ほっとけばいい。でも、いちいちサイコロを振るのも面倒なことだから、すべておまかせだ。瞬間瞬間に出会うこと、すべておまかせ。他力とは最終的にはそういう生き方になる。親鸞が晩年にいった自然法爾とは、瞬間瞬間にあらわれることが、仏様の出た目であり、すべてが仏様のあらわれということだ。」

 ここまではわかったような、わからんような。
つぎに「苦しんでいる人を見て『ああ苦しんでいるのだな、それはそれでいい』ということになる。なぜなら、それも仏様のはからいなのだから。救ってはならないというのではない。救ってもいい、救わなくてもいい、どっちでもいいのだ。飢えで苦しんでいる人にパンをあげるのがいいというのは、パンをあげた方がいいことで、見過ごすのは良くないという価値判断をしていることになる。親鸞はそういうはからいをすべて捨てなさいというのだ。」となると、ボクはお手上げだ。

さらに臨済宗円覚寺派管長の足立大進老師の言葉――「禅の坊さんは説法なんかしないでも3語話せばいい。相手が『こんないいことがありました』と言われたら、〈よかったね〉。『困りました』と言われたら〈困ったね〉。あともう1語は〈そうだね〉とそれでいい。」を紹介している。
つまり、現象世界そのものがすでに真理をまっとうしているという考え方なのだ。これは道元の有名な「現成公案」に通じるという。ここでは、親鸞の他力と禅宗の自力の区別がなくなっている。

 ひろさんは浄土真宗のお寺で講演の後の質疑応答で、「ターミナルケアとかホスピス運動はキリスト教の慈善活動で、仏教者がああいう運動をやるのはいいことだと思わない」と発言して一部の僧から猛烈に抗議された。そのとき、この4条が脳裏にあったという。

 善人面をするな、といいたい気持ちはわかるが、社会改革や助け合いの具体的な貢献、パワーという点で仏教が極端に弱いのはこういうところからくるのだろうか。阪神大震災の現場へボクは一週間ほど通ったが、キリスト教や一般ボランティアに比べて、仏教関係者の数は格段に少なかった。生きとし生きるものの平等を説く仏教団体の関係者が、人間に対してもだが、むろん人間以上に悲惨のきわみにあった動物たちにも組織だって保護の手を差し伸べたという話をついぞ聞かなかった。