137 捨て子を見捨てて立ち去った芭蕉

    ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 137

137 捨て子を見捨てて立ち去った芭蕉

『棄児秋風』(きじしゅうふう)は芭蕉の有名な「野ざらし紀行」のなかでも、その場面の悲惨さと異例に長い前書きと後書きのあることで知られている。

富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨て子の哀れげに泣くあり。この川の早瀬にかけて浮世の波をしのぐに堪えず、露ばかりの命まつ間と捨て置きけん。小萩がもとの秋の風、こよいや散るらん、あすや萎れんと、袂より食い物投げて通るに、
猿を聴く人捨て子に秋の風いかに
 いかにぞや、汝父に憎まれたるか、母に疎まれたるか。父は汝を憎むにあらじ。母は汝を疎むにあらじ。ただこれ天にして、汝が性の拙さを泣け』

川辺で捨て子が泣いている。通りかかった芭蕉は食べ物を与えてそのまま通り過ぎる。
「まことに無残な光景で、この長い前書き後書きからも芭蕉のショックのほどが察しられますが、それを〈唯これ天にしてーーー〉と見捨てていくところに、芭蕉の慟哭があるのでしょう」と作家中野孝次は説明している。

 猿を聴くーーは、サルの鳴き声に秋を感じるという中国の習慣らしい。それを下敷きに、この秋風に捨てられている子に何を感じるのか、と自他に問うているのだろう。

 仏教評論家の、ひろさちや、は仏教的な立場からつぎのように説明する。
「〈ただこれ天にして、汝が性の拙さを泣け〉――これがお前の運命なのだ、その運命の冷酷さを泣け。芭蕉はそうするよりほかなかった。その捨て子はきっと仏が救われます。わたしたちはそれを信じるよりほかありません。この世にあってはどれだけ、他人に同情しても、完全な意味で他者を救うことはできぬのだから、そういう慈悲はしょせん中途半端である。ただただお念仏することだけが徹底した大慈悲心だ」

食べ物を与えるのは1度きりで、旅の人・芭蕉は去っていく。捨て子はまたおなかをすかすだろう。秋風はやがて冬の凍てつく川風にかわるだろう。風邪もひくだろう、病気もするだろう。わが家にひきとって衣食住を世話してやらねば幼い命は風前の灯だ。それはわかっていても芭蕉にはできない。当時の庶民にとってもなかなかできることではなかったろう。仏教に造詣の深かった芭蕉はどんなにかつらかったことだろう。しかも捨て子はひとりだけでない。こういう光景はいたるところにあったはずだ。

顰蹙(ひんしゅく)を買うかもしれないが、捨て子にノラをだぶらせるとこの間の事情がより身近に浮かんできた。そうなんだ、飢えと寒さにさらされているノラたちをどんなにかわいそうとおもっても、世界中のノラを保護しつくすことはできない。仮に目の前の1匹を助けるとしても、不妊手術や餌、トイレの始末、病気、世話のいろいろ、実際にやってみると物心の負担は想像以上だ。

限られた地域の、限られたノラの世話をするだけで、稼ぎの大半を使い、心を病んでしまった人を何人もボクは知っている。最近のように経済不況が深刻になると、これらの人たちのしんどさも倍加しよう。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。ただ、頭を下げるのみだ。

ボクがノラの餌やりを続けたのは5,6年だったが、夕暮れ時になると、胸がどきどきし、苦しかった。肉体的なしんどさもさることながら、第1に住民の目を避けねばという心の重圧にたえねばならなかった。毎晩泥棒にでかけるような緊張感だ。

ノラをかわいそう、という気持ちは心の問題で、同調してくれる人は必ずいるが、嫌悪、無関心の人も少なくない。そういう人に心の問題を押しつける権利も法律もない。
神様からみて、ノラという生命体が理不尽な目に合っているのは事実だが、それはノラだけに限らない。いわずもがなだが、世界を見渡せば、内戦、テロ、貧困、飢え、いたるところにわれわれと同じ人間だって、理不尽な悲惨に呻いている。親をもぎとられた孤児ががあふれている。障害を持つ幼児が放置されている。

ボクはそれまで付き合っていたノラたちと決着をつけ、それ以後のノラには見て見ぬふりを決め込むことにした。ああ、いまはなんて気楽なんだろう。妻がノラや動物の悲しい話をしはじめると、言うな、と叱ってやめさせる。テレビに生き物が登場すると、必ずチャンネルを回してしまう。ちょっと想像力を働かせさえすれば、その底流に必ず生き物・動物の悲惨が横たわっているのがわかるからだ。
『棄児秋風』とよくセットで引用されるのが歎異抄の4条である。
悲惨な状況にある他者を、かわいそう、なんとか助けてあげたい、と思う気持ちをどう実践に移せばいいのか、どのように実現できるのか、その道筋をーー自力(聖道門)と他力(浄土門)にわけて説く。歎異抄のなかでも、最も重要な条文のひとつに数えられる。

歎異抄の入門書、解説書を手当たり次第にかき集めてこの条文の個所を読んだ。が、期待していたわりには、大半の書物は表現があいまいだったり、短すぎたり、抽象的だったり、ボクの仏教的な基礎知識がないことも手伝って、どうもピンとこなかった。最も鋭く執拗に追及しているのは現代日本の代表的な思想家・吉本隆明さん。漫談・講談・紙芝居調で大衆向けにわかりやすく書きまくっているのが、ひろさちや、さん。ひところ評判の高かった本多顕彰さんや、真継伸彦さん。それに明治期に歎異抄の普及と大衆化に尽力した異色の人、暁烏敏。これらの人の書物を中心に次回から歎異抄第4条のあれこれを、ボクのノラ猫談義もまじえて、気まぐれにアトランダムに引用してみよう。