133 生老病呆死(14) 苦しみと悲しみ・哲学と宗教

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 133

133 生老病呆死(14) 苦しみと悲しみ・哲学と宗教

言葉を失い、不自由な身体で横たわる哲学教授Aさんの心中を去来するものは、むろん、ボクなどには想像もつかない。

日記を開くと、倒れる前のAさんから聞いた話を要約したメモがあちこちに散らばっている。たとえばーーこれはライプニッツに関連したときのことかもしれない。
「――なぜ、世界が、宇宙が、こんなようであり、ほかのようでないのかと思案しても、解答は得られない。私たちは宇宙誕生の発端にも、終結にも立ち会っていないのだから。宇宙と世界、そして人間の営みのすべてを見届けていないからだ。なぜ、これらの出来事が起こり、万物(自然一般、むろんノラ猫も人間も)が出現し、ほかのようでないのか。むしろ、無ではないのか。そうした問いの前に私たちは口をつぐむよりほかはない。私たちを含む世界の存在一切は存在の意義、存在理由を知ることを拒絶されている。」

別の日のメモーーバークレーに関連。
「山や都会や人々(ノラ猫も)の存在は、私が見なくなったり、感じなくなったりしたら、それは存在しないということだろうか。人間がすべていなくなったら、何者がそれを知覚するのだろうか。何者かによって、それらは見られ続けねば、その存在は疑わしい。バークレーは、それらが存在し続ける証として、移ろうことのない絶対者によって見られ続けているのでなければならない、といった。存在は無限だ、その無限の存在を知り尽くしているような何者かがそこかに存在していなければならない。過去、現在、未来にわたって、時空を超えて万物の存在を見続け、熟知している存在者。それを私たちは神と呼ぶのだ。」

「存在するもの(人間もノラ猫も)には必ず存在理由があるのだ。私たちは偶然に存在していると思っていることも、それは単なる偶然ではなく、理由があるはずだ。私たちがその理由を知らないだけだ。わからない、と放置するのでなく、その理由を考えねばならない。そして、自分(人間やノラ猫)という存在は有限で滅びるとしても、自分についての知や記憶、言動の痕跡は神の永遠不滅の心の中に生き続けると信じることは可能だ。私たちが絶対者としての神の存在を願い、信じる根拠はおそらくここにあるのでないだろうか。」

倒れる前のAさんは、改まって宗教めいたことは話されなかったが、このメモを読み返してみると、なにがしかの宗教のにおいが漂ってくる。そして、唐突だが、もし哲学の色を「苦」とすれば、宗教は「悲」色なのかしらん、と思ったりした。

精神科医神谷美恵子はよく知られた著書「生きがいについて」で、苦しみと悲しみの違いを論じている。

「苦しみにおいてはなにかしら動いているものがある。これに反し、悲しみの世界では、もはやひとは抵抗することもやめ,あがきからも身を引いている。もがくことをやめた瞬間に、悲しみは潮のように流れ出て心の中のあらゆるものにしみわたり、外界にみえるものまですべてを哀愁の色に染めてしまう。そこにはもだえやあせりの態勢にはみられない統一と諦観のしずかな美しさがある」

ここで説明されている悲しみの「諦観」と、Aさんの考え抜いたあげくの「ポカーンとしていても許される状態」とは底の方で響き合うものがあるはずだ。
苦しみと悲しみの、質量のエネルギーはどちらが大きいのかボクはわからないが、位置からいえば、苦しみを通り越したところに、悲しみがうずくまっているようにおもう。

Aさんは考え抜く哲学という全身格闘の抵抗やあがきをやめて、しずかな統一と諦めの宗教的境地に入っているようにも思えてくるのだ。

苦しみについて神谷さんはつぎのように書く。
「精神的苦悩は他人に打ち明けることによって軽くなる。慰めや励ましを受けるということもあろうが、なによりも苦しみの感情を概念化し、ことばの形にすることで苦しみと自分との間に距離をつくるからでなかろうか。言うに言われぬ苦しみを言い表そうとするとき、人は非常な努力によって苦しみを自分から引き離し、これを対象として眺めようとする。だれかほかの人も一緒だと悩みの客体化の度合いは大きくなる。悩みの実体がはっきりするほどその圧倒的なところが減ってくるものらしい。」

一方の悲しみについて。
「苦しみは精神の一部しか占めないことが多いが、悲しみは一層生命の基盤にちかいところに根をおき、その影響は肉体と精神全体にひろがって行く。ゆえに深い悲しみにおそわれた人は何をすることも考えることもできなくなってしまう。苦しみはまだ生命へのあがきといえるが、悲しみは生命の流れそのものがとどこおり始めたことを意味する。悲しみは死と虚無とを志向するものといえる」