132 生老病呆死(13) ベッドで彼は何を思案しているのか

     ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 132

132 生老病呆死(13) ベッドで彼は何を思案しているのか


さて、ボクと電話中に脳梗塞の発作に襲われたA教授は救急車で病院に運ばれ、現在は老人施設に移っている。医学的治療はすべて終わり、手足の不自由と言語の不明瞭が残った。意識・認識は以前の状態に戻ったようだ、とご家族はおっしゃる。

車いすで施設内を移動できるのだが、Aさんは施設の行事や集会にはいっさい出席せず、入居者のだれとも没交渉のようだ。「万事、考え方の違う人たちと接触したくない、みたいなことを本人は伝えるのですが」と夫人は困ったように説明した。人と会うのをあまり喜ばれないようで、ボクも遠慮している。

Aさんはかねて夫人の心身の状態が良好ではないと気にしておられた。
ほかのこどもさんたちは立派に成人され、ひとりは大学教員、ひとりは米国の医学研究所の要職につかれている。しかし、ご主人と長男さんの不運が重なり、夫人の心労はひとしおであろう。

その後も、ときどき夫人に電話をする。電話の印象では、聡明、博学、そしてAさんと違ってユーモアにも富んだ話しぶりだ。春に電話したときは長男さんの訃報を口にされた。

――この正月、長男さんの危篤の報がはいった。ご主人にはそれは告げず、好物のお雑煮を用意しておいて、東京の長男さんの入院先にかけつけた。意識の混濁していた長男さんはふしぎに意識を取り戻し、「おかあさん!」といってくれた。四日間付き添い最期を看取った。
「私は長男を恋人のように愛していましたの…… 」。
それまで淡々とむしろ明るい口調で話していた夫人が、突然、低い声になり、「あんな宝物のような存在を最後に奪うのであれば、なぜ、神様ははじめに私にお与えになったのでしょうか…。はじめからくださらなければよかったのに…… 」。
静かな短い嗚咽の後、夫人はとぎれとぎれに、「悲しみも時間が解決してくれるでしょう。今度は夫です。あとしばらく夫には時間があります。何も知らないわたしにこんなことがなぜ、一度に重なってきたのか…。」

 数日前の電話。
 Aさんの状態は相変わらずのようだが、夫人はかなり落ち着きを取り戻しておられる様子だった。
 「夫の介護をしながら、ふたつ思ったことがあります」と原稿をよみあげるように整理して話された。

ひとつは、この世は「苦」だとやっとはっきりわかりました。この年になるまでほんとうのところがわかりませんでした。なんて、ばかだったのかと。いま、聖書とか歎異抄とかを読んでいます。

ふたつは、彼(ご主人)のことです。施設のベッドでじっと寝ている。何を考えているのか。明確には表現能力がなくなっていますが、どうも以前のような健康体への回復をねがっているふしがあります。でも、現代医学ではこれ以上のことは望めない。いまが限界です。いまの後遺症を背負って生涯を終えねばならない、と私たち家族は知っていますが、本人には伝えていません。

(あんなに賢い人なのにそれがわからないのだろうか、みたいなニューアンスを夫人は示された。)

こういう彼のこれからの人生の時間、生の意義とは何か、とつい思案してしまいます。いや、それよりもっと考えるのは、そのことを彼自身は考えているのだろうか、いったい彼はいま、何を考えているのだろう、と。そんなことを思い始めると、彼のこれまでの人生全体の意味は何だったのだろうか、みたいなことにも及んできて。
病院ではもう治療の余地がないので、長期入院の可能なこの施設にきたのですが、彼は他の入居者と接触しようとしない。そんなあれやこれやを考え合わせると、いっそうわからなくなります。

 ボクは夫人の話を聞きながら、思い出したことがある。
前回の般若心経の「受想行識亦復如是」の個所を説明しながら、Aさんはこう付け加えたのだった。
「いろんなしんどいこと、つらいことがあっても、悩み事があっても、『自分が自分の都合で勝手にそう思って、苦にしているだけじゃないか。宇宙全体から眺めれば雲が出たり、消えたりするのと同じで、ほんとうはなにもないのかもしれない』。そう自分に言い聞かせることにしています」
(この項は続く)