130 生老病呆死(11)考え抜いたあとはただ、ポカーン、としてい

    ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 130

130 生老病呆死(11)考え抜いたあとはただ、ポカーン、としている

 死期が近づいたせいか、突然ハシカのように哲学書をかじり始めた。先般、ライプニッツの「なぜ事物は存在するのか、なぜ無ではなく、存在しているのか」のくだりを確かめたくなって、友人の哲学教授Aに電話した。「専門外だけど」といいながら懇切に説明してくれていた。その途中で、彼の声がだんだん低くなりついに消えた。何か急用でも起きたのだろうと軽い気持ちで受話器を置いたが、彼は電話中に脳梗塞の発作に襲われたのだった。一命はとりとめたが、手足の不自由と、話せないなどの後遺症が残った。2年半ほど前のことである。

 それ以前から彼にはいくつかの心労が重なっていた。ボクのような者に心の内を打ち明けてくれていた。そこへダメ押しのように長男さんの末期癌が判明した。柔和だが、芯は強靭で、めったに弱音を吐かない彼が「二人の孫がまだ小学生でね。将来を考えるとつらい」と泣きべそのような表情を見せた。

 ボクも心からつらかった。そのうち妙なことが気になってきた。彼のこの悲痛に対して哲学はどう立ち向かえるのか。いやもっと抑えていえば、悲しみを癒す多少の効能を持っているのだろうかということである。彼は一応、有名国立大学の哲学教授である。知を愛し、世界のことわりを勉強してきたことでは人後に落ちないが、さて、それがいまの彼に具体的にどんなに役立つのだろうか。いやいや役立たないのがそもそも哲学というのだろうか。
宗教なら、人によって向き不向き、好き嫌いはあろうが、ともかくそうした目的を担っている。

 相手の気を害さないように、タイミングを見て、唐突にシンプルにこう言ってみた。
「哲学をしてきて、いま何かいいことがあったと思う?」

彼はむろん頭脳明晰で、律儀、くそまじめ、といった性格だが、日常会話では天然ボケのようなところがある。本人はまっとうに対応しているつもりでも、どこかはぐらかすような答がかえってくるのだ。ぴんぼけのような、拍子抜けのようなことをよく言う。

 さて、どんな答がかえってくるのか?
 ボクは内心、この問いかけは簡単に見えて、じつはなかなかの難問であろうと自負みたいなものがあった。一般的な抽象論ならいくらでもフレーズは浮かぶだろうが、個人の日常的な具体的な苦悩に対して哲学はどんな具体的な処方箋を出すことができるのか。試してみたい気がした。

さすがの彼も困惑するに違いない。 
彼はいつもの緊張感の乏しい、ふにゃふにゃした表情で5秒ほど思案してからいつもより饒舌にすらすらと話し始めた。

「あのね、哲学いうのは、考えて考えて考え抜くんです。考えたあげく答えがみつからなくても、考えたからもういい、それで仕事は終わったのだ、やるべきことはすませたのだ、と離れることができるんです。それが不自然でない。全力を尽くしたあとの満足感みたいなものがあるんです。答えがないという答えが出て、問題は解決したんです。」

  • ――答えがないという答えが出て、そのあとどうするのですか?

「どうもしないの。もうぽかーんとしておればいい、放っといていい、考えるだけ考えたのだからそれで許される、みたいなところがあるんです。悲しいことは悲しいままで放り出しておいていいのだ。自分の義務は終わったのだ、そういう心境になれるところが哲学をしてよかったとおもえることでしょうか」

ボクがどこまでこの言葉の真意を理解できたのか自信はないが、しかし、深いところで伝わってくるものがあった。

老いた元哲学教授を知っている。ふた言めにはソクラテスを口にし、哲学の知識をひけらかすが、日常の生活ぶりはソクラテスからおよそかけ離れて小心で裏表を使い分け、陰口を好み、肩書とお金にこだわる。哲学する人柄と知識はかくも乖離するものかと驚いた。哲学することとその人柄を同じように見ようとしたボクの甘さと無知を大いに反省したものだ。

クセのある個性的な哲学者で知られる中島義道さんは著書『哲学の教科書』の中で、「日本には哲学研究者や哲学評論家はあふれているが、哲学者は数えるほどしかいない」と書いている。オリジナルな考えがなく、過去の学説を紹介しているだけというのである。そして哲学者とは「時間や存在や自由や自我などについてのさまざまな理論でなく、全身をもってこうした事柄そのものと格闘しその戦記を血の言葉で語る人のことです。」といい、ニーチェハイデガーヴィトゲンシュタイン、西田幾太郎、田辺元らをあげている。

 彼Aもまた、いま全身で格闘しているのだ、とそのときボクは確信した。
(この項は続く)