128 動物実験(60)私たちにできること 4 神様から預かった

     ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 128

128 動物実験(60)私たちにできること 4 神様から預かった十日間の命

前回にちょっと触れた野上ふさ子さんの提言の続き。

『動物保護グループを
 捨てられた犬屋猫、虐待されている動物を助けたいと思っても、一人の力では限りがあることも多い。地元の、あるいは各種の保護団体に入ったり、心を同じくするもの同士でグループを作って、情報交換をしたり、動物保護活動のノウハウを分かち合うことができれば、力がわいてきます』

当たり前のように読み過ごしがちだが、この提言は初心者にとって実効性のあるポイントだ。ほんのわずかなボクの経験でもそれは言える。どんな小さな保護活動でも、途方にくれることがつぎつぎ出てくるのだ。その時、一人ではとても心細いし、実際無力だ。

さて、前回に予告したボクの「かわいそうがり屋さん」との小さな挿話。そのとき書いた文章を再掲させてもらう。

『先日、庭先に猫の赤ちゃんが捨てられていた。ヨチヨチ歩きで、ギャーギャーとうるさい。だれが捨てたのか、無性に腹が立つ。世間体もあるので、とりあえず家に入れ、女房がミルクやすり餌を食べさせようとするが、それさえままならない。腹立たしさがエスカレートしてくる。

犯人は善行をしたつもりになっているのじゃないか。わが家には2匹の元捨て猫がいるーーきっと猫好きの家なのだろう、一匹追加しても何ということはないだろう、これで一件落着――ぐらいに思っているのかもしれぬ。自分は汗を流さず、猫を保護した気分になっているのかもしれぬな。

そういえば以前、動物保護活動家の自宅にダンボール箱いっぱいの子猫が送りつけられたという話を聞いたことがある。

犯人さんよ、聞いてくれ。私たちは猫が好きで飼っているのでない。1匹めはテニスコートのそばで弱々しく鳴いているのを「うちでは飼えないけど」と見かねている女子中学生の姿を女房が見かねた。
2匹めは里山を歩いているとき遭遇した。下半身を怪我しているらしく、身体をひきずるようにしてどこまでもついてきた。2匹ともぶつかってしまったからしかたなく飼う羽目になっただけ。ネチネチと陰気、わがままなネコ族を私は本来好きでない。

いずれにせよ、飼うのは2匹が限度だ。早く引き取り先をみつけようということで獣医の診察を受け、粉ミルクと哺乳器をもらった。赤ちゃん猫は元気満々。ダンボール箱からはいだそうと大声でもがく。3日め、軽い下痢。しかし、私が顔を近づけると、小さな口をあけて脅すしぐさ。7日めの夜、容態が急変。ぐったりと声も出ない。食欲もない。タオルにくるみ、女房がてのひらで温めながら夜を徹した。

翌8日めはだんだん回復へ。午後は手足をばたつかせながら、哺乳器に吸いつき始めた。10日めの夕方、帰宅すると、キョロキョロ部屋を歩いている。「箱から出してやるとご機嫌で」と女房も安堵の表情だ。だが、深夜にふたたび容態が急変したらしい。明け方、「いま、チビちゃんが死んだ」と女房が私を起こして告げた。

動物保護団体の会合で弁の立つおばさんが安楽死をすすめたことがある。不妊手術をしない無知な飼い主が多い、そしてカレらの繁殖力はすごい。かくてノラは天文学的にふえる。せめてわれわれが腕の中で安楽死させてやるのもいいではないかという趣旨だった。
理屈はその通りだが、でも、ほんとうにそうなのだろうかと改めて考えさせられた。

自宅近くの、海の見える山の斜面にチビを埋めた。生き延びてもこの世は猫たちにとって住みいい場所でない。「浮世の滞在は短いほどハッピーなんだ」。われながらキザなセリフが浮かび、その一瞬、神様から預かった10日間の小さな命をいま、お返ししたという殊勝な思いがかすめた』

いま読むと、「かわいそうがり屋さん」を意地悪く書きすぎたという反省がある。「ふーん、そんなこともあったっけ」と見向きもしない無関心派、「まあ、それくらいいいじゃないか」とけじめのない鈍感派、「犬猫畜生のことにかまってるひまがない。人間がたいへんじゃない」という向きもあるかもしれない。こういうタイプは結局、人間よりだれより、私だけ! に落ち着く人たちだ。自分の身の回り5メートルの視界しか持てない人だ。想像力の欠如した人種なのだ。

「かわいそう」と思う心がある分、「かわいそうがり屋さん」はわれわれの側だ。仲間に加わってもらおう。小異を捨てて大同につく、というやつである。情報を交換し、経験を話し合い、勉強しよう。知恵を絞り、実践しよう。それでないと運動は大きくならない。実を結ばない。野上ふさ子さんのこの提言の意味もそこにある。