127 動物実験(59)私たちにできること 3「かわいそうがり屋

     ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 127

127動物実験(59)私たちにできること 3 「かわいそうがり屋さん」

前回のつづき。

前回の鬱になった女性からちょっと心配な携帯メールが届いたのは2年半ほど前だ。宛先はボクだけでない、友人一同へ共通である。こんな趣旨だった。

「しばらくノラ猫から離れます。不妊手術も頼んでこないでください。もうお金がありません。ノラ猫を引き取るのもやめます。ノラ猫の情報を連絡してこないでください。ノラ猫のことはなにも知らせないでください」

 これを受け取る少し前、ボクは彼女の夜の勤め先へでかけた。シャッターが目立つ場末の商店街の奥にそのラウンジはあった。ボクらの世代ではキャバレーと呼んだ雰囲気の店だ。だだっ広い空間にテーブルが教室のように並び、店はけっこうはやっていた。けばけばしい衣装の若い女性たちがあちこちでわいわい騒いでいる。ボクは彼女の名を告げた。指名制になっていると彼女から聞いていた。ボーイ長ふうの男性に隅のテーブルに案内された。しばらくして彼女がきた。この店では落ち着きすぎておばさんに見える。

 ママもきて、名刺を差し出し、「ボトルとっていい?」。ママのそばで、でくのぼうのように彼女は身を固くしている。
 ママがいなくなって、ボクはやっと小声でノラ猫の話をした。彼女もほどけてきて、少しずつ話が弾んだ。

 彼女の小さな自宅2階に現在12匹の猫がいる。
 健康な猫、きれいな猫はみんな里親にもらわれていって、いま残っているのは病気や体の不自由な猫ばかりだという。「でも、とてもかわいいの、ほらね」と彼女は1枚ずつ写真をみせてくれた。

 悩みはお金だ。不妊手術、猫の医療、餌代、糞尿の始末。貯金は底をついた。ほんとうをいうと、すこしだけとってある。でも、これは非常時に備えておく。だから、最近は捨て猫、ノラ猫に出会いそうな通勤途中の公園は猫の声が聞こえないように耳をふさぎ、目をつむるように走り抜けるのだそうだ。

それなのに友人知人が「かわいそうな子猫を拾ってきた。なんとかして」とか「近所にノラ猫がいる。ほっとけない気持ち」などと相談にくる。この人たちは、「かわいそう」という気持ちはあるのだが、だからといって自分ではお金も時間も使おうとしない。情報を提供するだけだ。捨て猫やノラ猫を確保し、不妊手術し、病気の場合は治療し、里親を探し、里親にも敬遠される障害をもつ猫などは結局、彼女自身が飼うことになる。そしてとうとうダウンした。

実践の伴わない、この種の「かわいそうがり屋さん」は少なくない。彼女があのメールを一括発信した気持ちがわかる。ボクにもこれに似たとても小さな経験がある。それは次回に書こう。

さて、これは「かわいそうがり屋さん」に直接関係する話でないが、ちょっと気になったシーン。
先日ゆきつけの動物病院にいたら、前掛けをした商人風の初老の女性がかけこんできた。ポケットから千円札をわしづかみに取り出し、「いま、これだけしかないねん。またあとで持ってくるから頼むわ。」と子猫の入ったカゴを受け付けにわたした。

女性は近所で小さな商店を営むが、ノラ猫を捕まえては不妊手術をして放しているという。それでもあとからあとから捨て猫が絶えない、子猫がつぎつぎ誕生する、と嘆いた。獣医とは古い付き合いで、割安にしてもらっているというが、もう何十匹も持参したというからそれなりの額になるだろう。ざんばら髪の、質素な身なりの女性はあたふたと出て行った。この不景気な時代に、となんだか気の毒に思われた。

居合わせた客の老女が受付の女性に「私もノラの餌やりをしていますが、ここでは不妊手術を安くしてくれるのですか?」と聞いた。受付嬢は「いえ、あの人だけです。ノラには餌をやらないようにしてくださいね」と突き放すような口ぶりだ。

ボクは妙に勘に触った。お前は犬猫のおかげで月給をもらっているのだろ。餌をもらえない犬猫はどうすりゃいいのかね。飢え死にするほかはないだろ。お前は犬猫を商売のタネにしながら、平気なのか。責任持てよ。同じ犬猫じゃないか。そんなにつっけんどんにしなくてもいいじゃないのかね。

多分、その時ボクは鬱になったあの女性を思い出していたのだろう。
ここで二つのことを問題にしたい。
ひとつは次回に改めて紹介するが、野上ふさ子さんが提言しているように、「一人の力では限りがある。心を同じくするもの同士でグループを作って情報交換をし、保護活動のノウハウを分かち合えば、力がわいてきます」

 もうひとつは、見捨てられたノラたちをどう考えればいいのかという問題だ。縁を切った鬱病の彼女、それに7匹の不妊手術をしただけでコトを済まそうとするボク、この二人の人間はノラから離れて一件落着だ。けれど、縁を切られたノラたちはどうなるのか。カレらの立場をボクたちはどう解釈し、納得すればいいのだろう? これについては、近いうちに20世紀を代表するフランスのユダヤ系哲学者レヴィナスを通じて考えてみたい。レヴィナス自身はアウシュヴィッツ強制収容所を生き延びたが、親兄弟はみな虐殺されている。
(この項は次回につづく)