125 動物実験(57)私たちにできること 1 揺らいだボクの見

      ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 125

125 動物実験(57)私たちにできること 1 揺らいだボクの見栄

 野上ふさ子さんの「私たちにできること」よりーー。
 『動物を飼う場合は。
動物をペットショップで買うぐらいなら、すすんで不幸な犬猫の里親になる。動物保護にかかわる団体や個人が保護している動物をもらい受ける。あるいは動物愛護センターや動物管理事務所などで死を待つ動物たちの譲渡を受ける』


この提案も大賛成だ。しかし、ペットショップの人たちの生活がかかっているしなあ。それにボク自身えらそうなことはいえないのだ。

こどものころ、ボクは父にせがんでいまでいうペットショップで紀州犬を買ってもらった。犬小屋で一緒に寝るほどの仲だった。カレは各種コンクールで入賞し、犬の雑誌の表紙にもなった。学校から戻ると、カレを連れて散歩し、銘柄ぶりを見せびらかすのがうれしかった。弱そうな野良犬を選んでけんかさせた。勝つたびにカレは自信をつけ、いよいよ強くなった。ときには強い野良犬に出くわし、苦戦する。そんなときはボクが助勢し、相手の犬を蹴ったり、石を投げて「キャン」と鳴かせる。カレは自分が勝ったと思って勢いづくのだった。

大人になっても銘柄犬を見せびらかしながら歩く癖がなおらなかった。その薄っぺらな見栄っぱりのボクに小さな変化が起きたとき。きっかけとなった出来事を本ブログの50回「子猫しか飼わない主婦の哲学」に書いた。1部分を以下に抜粋する。 

『もう40歳を少し過ぎていた。飼い犬を散歩させていると、道端でボクと同年輩の冴えない男がしゃがんで犬の体を撫ぜている。犬も痩せて薄汚くボクの犬のような銘柄犬でないのは明らかだ。そのお粗末な犬がボクのタローのお尻を嗅ぎにくる。タローは毛並みはよくても幼犬で、ボクは神経をとがらせた。こんな犬に汚染されたくない。男の目前で何度も雑種を蹴飛ばそうとした。男は「そんなことしないでも…。野良犬ですよ」とぼそぼそ小声でいった。ボクはここぞとばかりに「野良犬をほっとくなんて物騒な。保健所へ連れてゆけばいいじゃないですか!」と叫んだ。怒気を含んでいたはずだ。男はボクをさげすむような、諦めたような、ちょっと寂しそうな顔をしてうつむいた。

その後、なにかあると、このときの光景が蘇り、自分を責めたくなる。温和で深いまなざしのあの男性にも、親しみやすかった雑種の野良犬にもお詫びしたい。その反動からか、いま、得意そうに銘柄犬を散歩させている人間を見ると、つい軽蔑したくなる。』

 このときの苦い気持ちが、次第にボクの関心を銘柄からノラへ移行させていった。

 人間に飼われるのと、ノラでさまよったり、動物管理事務所、動物愛護センターで死を待つのとは同じいのちの行方でも「天国と地獄」の違いがある。
雨の日は合羽、寒い日は防寒具スタイルで、散歩させてもらっている犬などをみると、飢えながら人間を恐れ、警戒し、氷雨の中をさまよっているノラたちの姿を思い出し、つらくなる。

餌場の溝で、雨水の流れに足を浸して、深夜までボクを待ち続けていた猫たち。
それでも、実験動物たちよりまだましなのだよ、とボクはよく話しかけたものだ。
キミらは自由にどこへでも死に場をみつけて行ける、飢えたり、寒かったり、飲み水がなかったりするけれど、自由にさまよえる。

実験動物たちは冷暖房の部屋にいても、餌をもらえることはあっても、脳に電極を入れられたり、頭部をハンマーで叩きつけられたり、切り刻まれたりして、最後は殺されるのだ。ノラのような自由はない。


一方で、「動物のいのち」に生活がかかっている人たちが存在するのは事実だ。「いのち」を一般商品並みに大量生産する繁殖業者たち。バーゲンをしてでも売上げをのばそうとするペットショップ。売れ残りは実験動物に払い下げられるという事実があっても金儲けの論理からいえば、ふしぎはないのだ。
「いのち」の安売り、出血サービスである。いのち、の氾濫である。
ひとつひとつの「いのち」を大切に慈しもう、という野上さんらの運動からみれば、めまいがするような対極の現実であろうが。

どうすればいいのか、ボクにはわからない。ただ、真夏の夜の夢を見ることはできる。
―――ペットショップや、いのちの大量生産業者にはいったん廃業してもらう。在庫の「いのち」たちも、全国のノラも、殺処分を待つ実験動物候補の生き物たちも全員を無料で放出、ペット好きのみなさんに飼っていただくことができたらーーー。銘柄でなくても、きっと家族になれる、友だちになれる、かわいいよ!!