122 動物実験(54)歴史のドラマ 9 二つの風景

     ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 122

122 動物実験(54)歴史のドラマ 9 二つの風景

 野上ふさ子さんが「新・動物実験を考える」の各章の終りにまとめている「私たちにできること」のなかからいくつかをあげる。一見、とくに驚くような項目はない。でも、これらを総合すると、動物実験のあらゆる問題点が網羅されている。ここにあげた項目のいくつかを実践できればすばらしい。実践できなくても、各項目をよく考えながら(人間に一番大事な想像力を働かせて)読むうちに、動物実験だけではない、小さな生き物たちの命と宇宙や時間、そして私たちとのつながりのようなものがおぼろげに浮かんでくるかもしれない。ボクはそうだった。

●第11幕。飼っている生き物が大きくなったり、けがをしたら人間はどうするのか。

:犬や猫を捨てないで。
捨てられた犬猫は飢えに苦しみ、いじめられ、ノラ犬の場合は毒餌、わな、猟銃で殺される。犬猫の寿命は普通、10年くらい。飼うときはよく考えて、飼う以上は一生、家族の一員として。

◎ボクのコメント
もうふた昔前の話だが、ボクの後輩で日本で一番難関といわれる大学の航空工学を卒業した男がいた。
ある日、グループで飲みに行ったとき、彼はニコニコしながらこんなことを言った。

「子供にせがまれて夜店で鶏のヒナを求めて飼っていた。ヒナが大きなニワトリになったので、マンションで手に負えなくなり、この前、子どもと一緒に山へ捨てにいってきた」。

それを聞いて仲間の一人が怒りだした。
マンションでヒナのころから飼われていた鶏が山の中でどうやって餌を確保できるのか、自活できるはずがないじゃないか。
ホステスさんも同調して、「あんた、学校でなにを勉強してきたの?」と顔を真っ赤にした。
その男はふだんから威張らない、気のいいやつなのだが、「そうだね、そういわれると、そうだね」とへらへらと笑った。腹に一物のない男とわかってはいるが、その答えぶりを聞いてボクもだんだん腹が立ってきた。

いまだに思い出すと後味が悪いが、それを洗い流してくれるようないい話を最近聴いた。
これも年下の友人だが、長男が反抗期で、奥さんがときどき、友人にこぼすらしい。そのとき友人は「大丈夫だ。カレは妹の死をちゃんと看取って、いま、飼い犬の懸命な姿を見ている。この2つの経験がどんなときもカレの支えになる、いい若者に成長するよ」と答えるのだそうだ。

カレの妹――友人の末娘は難病で赤ちゃんのまま亡くなった。親子3人は懸命に看病した。

飼い犬は、癌になり、前足をひとつ手術で失った。リハビリに近所の公園を散歩させるのだが、犬は自分が3本足なのをつい忘れるらしく、ベンチなどでは「無い足」を頼りにして、ちょいちょいひっくり返る。ふしぎそうな表情をしながら、不自由を克服するトレーニングを続けている。
カレは妹思いで、飼い犬思いだという。

友人は言葉少なく笑いながらボクにそう話してくれた。言葉は少なかったが、晴朗な笑顔は自信に満ちていた。
その自信と笑顔にボクも連帯保証を申し出たかった。

人も動物も命の尊さ。
生きるつらさと生きる喜び。
妹思いで、飼い犬思いのカレがそれを感じぬはずはない。
そして、それを感じ、知ることが人間のいちばん大事なことだ。

病気になって飼うのが面倒になったから。
年をとって可愛くなくなったから。
けがをしたから。
家を引っ越すから。
新しいマンションの部屋のデザインにマッチしないから。

こんな理由で飼い犬や飼い猫を捨てる人が少なくないという。
こうして実験動物がつぎつぎリクルートされていくのだ。
飼い犬のリハビリに汗を流すカレに、この一家に、拍手をおくりたい。