119 動物実験(51)歴史のドラマ 6 核兵器開発に貢献する動

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 119

119 動物実験(51)歴史のドラマ 6 核兵器開発に貢献する動物たち

「動物保護」とか「動物実験の残酷さ」を訴えると、感情的、感傷的、ヒステリック、合理的でない、現実的でない、見方が狭い、社会性がない、大局観がない、といったイメージを思い浮かべる人々がいるようだ。活動する人々は圧倒的に女性が多いこともあって、男性側からは「女性的」といわれることもある。女性的とはどういう意味かわからないが。

 野上ふさ子さんの著書「新・動物実験を考える」はこのようなイメージ・先入観をことごとくひっくり返している。
 身近な小さな生き物たちへの優しさは、戦争、爆薬、農薬、核問題、エイズなどなどを網羅する骨太な文明論につながり、哲学、宗教、ひとりひとりのかけがえのない一生をどう生きるか、の死生観に落ち着く一本のしたたかな回路であることを教えてくれる。

 ●第7幕は野上ふさ子さんの意識の深部に沈む風景

 原爆の爆心地を中心にした半径の各地点にヤギ、ヒツジなどの動物が杭につながれている。悲しそうにうなだれている。砂漠だ。まわりにほとんど草木はみあたらない。

 やがて、目に焼きつくような閃光が全体を覆い尽くし、その直後、巨大なキノコ雲が立ち上がる。爆風がまばらな草木をなぎ倒す。踏ん張っていたヤギやヒツジたちも横転する。一定の距離をとった地点に動物たちを配置し,被曝の距離と殺傷の関係を調べる目的で行われた動物実験。――少女のころ見たこの映像を野上さんは忘れられない。

 「スケープ・ゴート(身代わりのヤギ)という言葉がありますが、この光景はまさに人類の犯している罪悪を、何の罪もない動物たちに背負わせている行為……広島・長崎に核爆弾が落とされる前に米軍はその威力をためすために核実験をしました。多数の人や動植物を殺傷するばかりでなく、放射能の後遺症が長く……略。世界の核兵器保有国の核実験は合わせると千数百回におよぶと言われます。数えきれないほど多くの動物たちが放射線被曝の実験にさらされてきたのです。」

 野上さんのこのくだりをボクは興味深く読んだ。それまでうかつにも動物実験と言えば、領域は医学と思い込んでいるようなところがあった。核実験と動物の組み合わせはボクにとって新鮮であると同時に、医学の分野にもましていっそう人類の罪深さを意識してしまったのはなぜだろう。

 優れたジャーナリストで、広島の平和文化センターの理事長だった斎藤忠臣さんの話を思い出す。
斉藤さんは就任してまもなく、同センターが管轄する「原爆資料館」を見て回った。そのとき、地下の収蔵庫で一頭の被爆した馬の標本を見つけたのである。背中は焼け焦げ、鼻の先っぽはなかった。おとなの農耕馬らしかった。

農作業の最中に被爆したのだろうか? 仔馬はいたのだろうか。一緒に働いていた人は? どんな家族構成だったのだろう? 
そして、人間だけでなく、多くの馬や牛、犬や猫、動物たちもまた焼けただれ、苦しみながら死んでいったことを改めて思ったのだった。動物たちにも人間と同じような、後遺症の問題があったのだろうか。

焼けて、もの言わぬ一頭の馬は、被爆者とは違ったチャンネルで、斎藤さんに核兵器の圧倒的な悲惨とその廃絶を迫ってくるように思われた。
斎藤さんは一頭の被爆した馬の物語を通じて、小さな世代に何かを訴えたい、そう念じて、童話を書いてみたいという。

核兵器という、人類が創り出したもっとも科学的で悪魔的な大量殺戮のツールを試すために、日本国民はすでに広島と長崎で人体実験にさらされた。そのとき、多くの動物たちが巻き込まれたが、それ以後は人間の代わりに本格的に動物をつかっての核兵器の開発競争が始まっているのだろう。

人間同士の殺し合いが目的なのに、なぜ、まったく関係のない「動物のいのち」たちが、実験の対象にならねばならないのだろう。科学と無縁な動物たちが、人間の科学の成果によって殺され、苦しめられ、動物実験の結果、ますます科学としての核兵器は殺傷能力の精度を高めるというこの循環。

人間とは異なった立場から、動物には動物の怒りと悲しみと言い分があるに違いない。
実験者たちは、核兵器の開発競争は人類のために有益であり、そのためにやむなく実験動物を犠牲にしているのだ、とでも弁明するのだろうか。

(この項は次回につづく)