114 動物実験(46)歴史のドラマ 1 創始者ベルナール

    ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 114

114 動物実験(46)歴史のドラマ 1 創始者ベルナール

「新・動物実験を考える」の10章「なぜ動物実験は隠されているのか」は、10ページちょっとだが、動物実験の成り立ちと悔悟、将来への課題などが歴史上の有名人も登場して簡潔に綴られている。ふとそれは文明のありかたや哲学、宗教を問うテーマであることに気付かされる。案内役の著者野上ふさ子さんの個人的葛藤も幕間に語られ、さながら一編のドラマだ。 

●第1幕の舞台は大阪市森ノ宮にある「犬管理事務所」。

階段を下りていく野上さん。
薄暗い地下室のドアが開くと、コンクリートの室内にいっせいに犬たちの声がこだまする。数十頭の犬が檻に収容されているが、檻は3つに分かれている。 捕らえられてきたばかりの犬が詰め込まれる初日用、翌日の2日目用…3日目用と続くが、4日目用の檻はない。4日目に入る部屋は彼らの目の前にあるガス室なのだ。

 ガス室の隣にもうひとつ別の檻があった。
ここには毛並みがよくまだ元気そうな犬たちが選ばれて入れられている。手を差し出すと人懐っこく舐めにくる。彼らは飼い主によって、ここへ持ち込まれてきた。元気でおとなしく、人に懐いている。これこそが動物実験にもってこいの条件なのだ。実験しやすい、人に抵抗しない。
この世に生れておそらく最も悲惨な死に方をするべく運命づけられた生き物たち、地球の仲間なのだ。

野上さんはこう書いている。
「これまでいくつもの『動物愛護センター』や『動物保護センター』とよばれる、殺処分と動物実験払い下げのための施設をみてきましたが、これらの犬たちの瞳ほど胸を締め付けられるものはありません。人間なら、自分の運命を知ったら、きっと激しく怒り狂うか、憎しみと呪いの目を向けてくるでしょう。けれども、この動物たちは、人間にこんなひどい仕打ちを受けながら、あの澄んだ瞳でただただ悲しそうにじっとこちらを見つめているだけなのです……

人間の一方的な理由で動物を飼い、また一方的な都合で捨ててしまう。そしてその先はまた一方的なやり方でモノのように実験材料に使われて、痛い苦しい目にあわされて、あげくに殺されてしまう。人間はなぜ、手向かいすることもしない他の動物に対して、これほど好き勝手にふるまえるのでしょう」

●第2幕は動物実験創始者といわれるフランスの生理学者クロード・ベルナール(1818〜1878)が登場する。
ベルナールは著書「実験医学序説」によって動物を生きたまま解剖して身体の構造を調べる、外傷を加えたり、薬を与えて反応を調べる、という近代の実験医学を初めて体系化したとされる。彼の伝記にあるエピソードから。

ベルナールはある日、高名な外科医にみせるため、犬の胃に銀の管を差し込みそのままにしていたが、翌日、その犬が実験室から逃げてしまった。彼は犬はどうでもよかったが、犬につけていた実験器具を失ったのが残念がっていた。数日後、彼は警察署長に呼ばれた。出かけると、署長の妻と娘が逃げた犬を保護している。彼女たちは犬を撫ぜながら、このような動物虐待の行為を非難した。署長も厳しくベルナールに説教した。

ベルナールはしどろもどろになりながらも、いろいろ抗弁した。最後に念を押すように言ったのは「自分が実験に使う動物は、警察が野良犬を捕獲するために雇っている人から供給してもらっているのだ」

このエピソードを引きながら野上さんは、飼い主が捨てた犬を実験に使うというやり方は、実験医学の創始者たちの時代から現代に続いてきた悪習であることがわかる、と書いている。

ほかにボクは気になることがふたつある。
ひとつは当時、「捨てられた犬」や「野良犬」なら残酷な行為をしても許されたのだろうか。ベルナールは動物虐待の言い逃れに使っていますね。

もうひとつ。
動物実験を残酷と思う人たちが当時は多数派だったのか、少数派だったのだろうか。
現代は、動物実験があまりにも普通になってきて、おそらく無関心派が大多数だろう。
「研究のためにしかたがない」、「研究者だってそんなにわるいことはしていないよ」、「あまり重箱の隅をつつくようなことはいうな」という声も少なくあるまい。

現代人はますます多忙で、他人のことさえ、ましてや、犬猫動物のことに気を配る余裕を失っている。
科学を盲信し、批判能力が劣化している。
暗黒の実験室に動物の悲惨と情報は意図的に密封され、人々は知る機会がない。
一方で、情報の過剰は、人々の想像力を萎えさせ続けている。

 実験動物たちのゆえなき受難はいつ果てるともなく、時代とともにさらに増大するばかりなのだろうか?
(この項は次回に続く)