110 動物実験(42) 吉兆より本質的な「研究偽装問題」

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110 動物実験(42) 吉兆より本質的な「研究偽装問題」

「新・動物実験を考える」のなかで、野上ふさ子さんも少女のころの昆虫採集の風景を描いている。

年上の小学生の男の子たちがたくさんトンボをつかまえて、羽を5ミリ、1センチ、2センチ、と寸刻みで切り取っていく。そうするとトンボはどのくらい飛べるか、飛べないか、を実験しているのだ。
バッタの場合は、後ろ足を折るとどんなに跳躍ができなくなるかを調べる。
「どうしてそんなことをするの?」と問うと、「どうなるのか、見るのがおもしろいじゃないか」と男の子たちは答えた。

そのとき抱いた〈実験や観察のためなら、他の命を好奇心のままにいたぶり、殺してもいいのだろうか〉という感情は、いま、人間のためなら、他の命をどのように傷つけ、殺してもいいのだろうか、という人間中心的な文明への深い疑問になって心の中でこだましている気がする、と野上さんは書いている。

ボクもついこの間まで、人間のために、いや、科学のためになっているのだから、と動物実験を何気なく聞き過ごしてきた。動物実験という言葉は知っていても、具体的な中身には思いがおよばなかった。気軽にやり過ごしてきた。たいていの人がそうらしい。

その理由を野上さんは、多くの実験が一般の人々の目に隠されていること、しかも専門分野が細分化されているため、研究者同士でさえ、隣の研究室でどんな研究、実験がおこなわれているかわからない、と説明している。

たまたま内部告発などで実験の中身が明るみに出た時、はじめて、世間の人たちは知らされるのだ。研究者たちの単なる好奇心、あるいは意味のない、ばかげた、中身のない研究に、箔付け、権威付け、形式上の飾り付けだけのために多くの動物たちが残虐な犠牲になっている事実を。
動物実験のデータを添付しておくと、博士号がもらいやすい、という話もよく耳にする。

科学のため、研究のため、という美辞麗句で飾られた中身の偽装。それはこの数年この国を賑わしている、民間企業、国や自治体、大学や研究所、あらゆる分野を無差別に横行している各種各様の表示虚偽、嘘、ごまかし問題と同根の深刻で本質的なモラルの崩壊だ。
(いのちに関わるだけに、吉兆さん問題よりはるかに重大なのはいうまでもない。念のため。)

いのち、といえば、このところ、あちこちで頻発する若者たちの「だれでもよかった」無差別殺人事件。

無抵抗の実子継子を川に放り込んだり、床に投げつけたり、たばこの火を押し付けたり、熱湯をあびせたりする親御さんたち。

負けじとノラの犬猫、池の白鳥、(ついでにチューリップなどの花も)を虐待、殺戮する子どもさんたち。

ではわれわれも、と元気な団塊の世代の高齢者さん方は、人気のない早朝の大規模公園で自分の飼い犬を放し、野良猫を襲わせて楽しんでいるという報告もある。

以上の社会現象の一因が、もとはといえば、少年少女時代の昆虫採集にあったとはむろん、いえないけれど。

次回は衝撃的な研究者の犯罪を野上ふさ子さんの著書から書き写させてもらいます。