109 動物実験(41) 柳澤桂子さんの感性と研究

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 109

109 動物実験(41) 柳澤桂子さんの感性と研究

実験動物を死に至らしめるプロセスで「ここを越えたら、もう引き返せない、取り返しがつかない、そのような一瞬があった」と脳科学者・茂木健一郎さんはいう。そんな一瞬に敏感、鈍感、知らん振り、いろいろな人がいるだろう。研究者の場合は茂木さんが書いているように「だんだん何の感慨もなく、機械的なプロセスとしてこなす」ケースがほとんどだとおもわれる。(前回参照)。

職業上の慣れというのはどんな職種についても言えることだ。寺田寅彦の古いエッセイに観光バスのガイドが名所旧跡を乗客に情感こめて口上するが、本人は何度も同じことをしゃべっていて、無感動に違いない、というくだりがあった。

ボクは生命科学者でありサイエンスライター柳澤桂子さんの書かれたものが好きで、たいていの本は目を通させてもらっている。柳澤さんの本にはしばしば生き物が登場する。病の床にあって、「いのち」と「科学」と「神」という視点から彼らをみつめるまなざしは優しく行き届いている。
柳澤さんの数冊の本からいくつかのエピソードを拾ってみる。

四国の松山市に住んでいた幼い頃、近くの川を箱ごと捨てられて子犬や子猫が流れていく。犬も猫もかすれるほど声を出して鳴き叫ぶが、だれも助けてくれない。おぼれまいとして、水から出ている箱の部分にのぼっていたが、やがて箱といっしょに水に飲み込まれていった。なぜ大人たちは助けようとしないのだろう。そんな光景を見るたびに大人たちへの不信感が強まった。

野原に捨てられていた子犬や子猫は、家に連れて帰った。廊下に寝かすのでいつも野戦病院のようだった。哺乳瓶で牛乳を与えても飲む力がない。脱脂綿に浸して口にいれてやった。そして手のひらで温めてやったが、鳴く元気も目を開く元気もなくなって、からだが冷たくなり、ノミがぞろぞろ這い出してきた。亡骸は白い布に包んで庭の松の木の下に埋めてやった。1匹死ぬたびに、人に見られないようにタンスの陰に隠れて泣いた。

手のひらの中の動物たちは命をなくすと冷たくなってしまう、命とは暖かくはなやぎのあるものだ、そして生あるもののはかなさを知った。生き物は死ぬからいやだとおもいながら、やっぱり死にかかった生き物を見捨てることができなかった。

つぎは大人になってからのこと。
家の門のところでヘアピンほどの小さなトカゲの赤ちゃんを見つけた。「気をつけて。生きるのはつらいけど、しっかり生きて」と声をかけた。翌日、トカゲは昨日とおなじところでだれかに踏みつぶされて死んでいた。おそらく生きるつらさを知らないうちに死んだのだ。そのほうがよかったかもしれないと思った。

それが生命科学者の立場になると一転するーーー。
研究室でハツカネズミの胎児の脳細胞を培養していた。幼稚園児の娘さんは「その中に何が入っているの?」と聞く。「ねずみの赤ちゃんの脳ミソよ。小さい細胞にばらばらにしてこのなかで生かしてあるの」
娘さんはしばらく考えたあと、「そのねずみの赤ちゃんの脳の細胞は何を考えているの? 悲しがっているの?」と尋ねた。

ボクはまず「悲しがっているの?」と、問う娘さんの感性に素直に心が動く。いとおしく思う。普通の母親ならそうだろう。けれど、柳澤さんは違う。反射的に、[ものを考えるためには最低何個の細胞が必要なのか]、[考えるとは何なのか]、というテーマに発展する。

さらに「脳細胞が悲しんでいるかという娘の発想は切り刻まれて人工的な環境に置かれた脳細胞に対する哀れみの情に由来するものだろう。しかし…」としたうえで、[そもそも悲しみとは何か?、考えることと悲しみの違いは?]とあくまでも科学的問いかけが続くのだ。
 
あんなに優しい柳澤さんが、実験動物にいたわりの言葉めいたものをかけているのは、数多い著書のなかでボクの記憶するかぎり、2つの短い記述があるだけだ。
ひとつは「実験動物はかわいそうだが、科学のためにしかたがない」というさばさばと割り切った趣旨。
もうひとつは、[ネズミを苦痛少なく殺す首の折り方]を書いているくだりである。いずれもメインテーマでなく、なにかのついでに書き足したという感じで、ともに1行程度だった。そこにはふだん親しんでいるあの柳澤さんの感性や感慨といったものがうかがわれず、意外な気がした。

ボクの記憶が違っていたらおわびします。
ただ、柳澤さんでさえ、こうなのだから、ほかの研究者・実験者においておや、と強く思ったしだいです。