108 動物実験(40) エピクロスとハイデガー


ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 108

108 動物実験(40) エピクロスハイデガー

茂木健一郎さんのウサギを殺す話の続き。 
ウサギの肺が破裂する情景の幻影におびえながら、茂木さんは空気を送り続ける。そして考えるのだ。私という1人の人間がこのウサギの命をどうにでもできる権利を持っている。それは本来どういうことなのか。とてもおかしなことのように思えてきた…。
 
科学のために仕方ないというリクツもわかっている。動物保護団体のリクツが身勝手なのもわかっている。ただ、万能の私と無力のウサギ。そうなってしまった権力関係がとてもいやだった。医師と患者の力関係に似ている。それが耐えられないと思った…。

ウサギを殺すタイミングがきた。一気に咽喉を切って、ウサギをさかさまにし、血を出し切ってしまうのだ。ハサミを持った。

「ここを越えたら、もう引き返せない、取り返しがつかない、そのような一瞬だった」

目の前のウサギは、もう朝のかわいいウサギではない。変わり果てた姿になっている。それでも、もしハサミを捨て、喉を縫い、薬が切れるまで人工呼吸を続ければ命を助けることはできる。でも自分はそんな感傷を捨てるだろう、研究者としての通過儀礼なのだ。とにかくやらねばならないのだ。

ハサミに力を入れた。ぶどうジュースのような血が流れ出した。自分の手の中でウサギは生命の気配を失い、ただの重い白い塊になった。なぜか安堵する。ウサギをさばき、目的のブツーーー後ろ足の骨格筋を取り出す。終了。御用済みのウサギを野菜くずのように黒いビニールのゴミ袋に捨てた。そのとき、襲ってきた説明できないような違和感は何だろう。

その後、いろいろな理由でそのプロジェクトをやめ、ウサギを殺すことは二度となかった。
そのあと、茂木さんはこう書いている。

「もっとも殺すのがいやになったのでは決してなかった。もし必要があれば、私はウサギを再び殺していただろう。そしてだんだん何の感慨もなく、機械的なプロセスとして、そのプロトコル(手順)をこなすようになっていたかもしれない。だが、その場合でも、ウサギを殺すプロセスそのものは好きになれなかったろう。あの『取り返しのつかない点』を越えるのは、いつでも割り切れない気がしただろう」

そして茂木さんは死刑制度に触れ、人間を殺すというプロセスの中には必ず,『ここを越えたら、もう引き返せない、取り返しがつかない』という点があるはずだ、と強調する。

ボクはもとより茂木さんのように頭脳明晰でないからだが、上記を読んでいて、ちょっとわからない個所がある。

〈殺すのがいやになったのでは決してない。必要なら殺す〉というくだりと、〈殺すプロセスそのものは好きになれなかった。取り返しのつかない点を越えるのはいつでも割り切れない〉というくだりの間の溝はどう理解すればいいのだろう。曰く言い難い点は読み手がくみ取らねばならないのだろうか。

ふたつのギャップの間をつなごうと思案していたら、唐突だが、古代ギリシャの哲学者エピクロスと20世紀最大の哲学者とされるハイデガーとの「死」をめぐる対比を連想してしまった。
中島義道さんの「死を哲学する」(岩波書店)に沿って簡単に要約するとこうなる。

自分の死について人は2つの見方、態度の取り方がある。

1 現在の自分がやがて到来する死を考える。
2 現在の自分抜きで、死後の状態のみを考える。

エピクロスが「死はちっとも怖くない。われわれが存在するときは、死は存在せず、死が存在するときは、われわれはもはや存在していないからだ」といったのは有名だが、あまり説得力がない。それは彼が死の意味を(2)に限り、(1)
を無視しているからだ。ハイデガーは逆に(1)に限定し、人間存在を「死への存在」と規定した。自分が死んでしまえば死は問題ではなくなるというより、死を問題にしつつ生を伴走する自分がいる、それが人生だというわけだ。

茂木さんは先の死刑制度の文章のあと、「死刑制度の本当のところは、(法務大臣のような)判を押す人ではなく、現場で取り返しのつかないことに関わる人でなければわからない」と書いている。取り返しがつかないことを実際に行う人でないと死刑制度の実際が実感できないということだ。「死」を自分と離れたところで他人事として思案するのと、「死」と関わりながら具体的に作業するときと、死の意味はおのずから違うということであろう。

「ウサギを必要なら殺す」とあっさり言ってのける茂木さんはエピクロスであり、法務大臣でなかろうか。殺すプロセスは好きになれない、という茂木さんが蝶の胸を潰すことを拒んだ茂木さんだ。