105 実験動物(37) 宇宙ロケットと1匹の蠅(はえ)

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 105

105 実験動物(37) 宇宙ロケットと1匹の蠅(はえ)

 「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という高校生の質問に大人の識者たちが答えられず、たじたじとなった、というニュースがひところ話題になった。その当座は多くの論者が、これが正解だ、とマスコミに自説をふりまいたが、どうもピンとくるものがなかった。まがりくどい言い回しの末にたいていは、「君自身が殺される立場になったときのことを考えよ。 君は殺されることを望まないだろう。自分がいやなことは他人もいやなのだ。だから君は人を殺してはいけない」みたいな理屈に帰結していた。

 かの大江健三郎も登場したが、「こういう問いを出す少年を培った社会風土の問題点」みたいな論旨で、これは直接の回答というより、門前払いの印象だった。

 そんななかでボクが唯一納得したのは、養老孟司の「人は宇宙ロケットは作れても一匹の蠅すら作れない」という文章だった。
 評判になった『バカの壁』に続く著書『死の壁』の第一章を費やして養老さんは「なぜ人を殺してはいけないのか」を説いている。全文を書き写したいほどだが、要約・抜き書きしながらたどってみよう。

 話は中国の有人ロケットの発射成功から始まる。
 「快挙というけれど、蠅でも蚊でも飛ぶじゃないか。それも自分たちの思った通りのところに自在に着陸する。計算通りにしか飛ばないロケットとどちらが凄いのか。」
 「宇宙ロケットは非常に複雑に見えて実は極めて単純なシステムだ。月まで人間が行けることは、いまや理論的には難しいことでない。宇宙ロケットは作れる。だが、人は一匹の蠅や蚊も作れない。そのシステムの理屈さえよくわからない。そのくせ平気で蠅や蚊を叩き潰している」
 「人を殺したり、壊したりするのは簡単だ。棒きれでもやれる。だが、人間の(身体の)システムを作ってみろ、といわれたらだれもお手上げだ。」

 そして、養老さんはいくつかのエピソードを挟む。
子供のころ、家にあった高級な時計を分解したことがある。全部の部品をつぎつぎ机の上に並べ、分解終了。そこまではよかったが、さて元通りにしようとして、はたと気づいた。分解することは子供でもできる、しかし、システムを元に戻すことは容易ならない。時計でさえそうなのだ。

第二次大戦後、冷戦時代に米ソが核ミサイルを作りすぎ、2年間で2万発減らそうということになった。だが、処理作業上、実際には1か月に数発しか減らすことができなかった。自分たちで安全に壊すことさえできないものを作り続けていたのだ。ロケットだって巨大な三峡ダムだってこれに似ている、時代遅れではないか。あともどりできないということがあるのに。
(まるで、宇宙ロケットは一匹の蠅や蚊にも劣るといいたげだ。)

仏教国ブータンの食堂へはいったときのこと。テーブルに群がっていた蠅が地元の人が飲んでいたビールに飛び込んだ。彼は蠅をそっとつまんで逃がしてやった。見ていた養老さんに「お前のお爺さんだったかもしれんからな」と笑った。蠅の姿をしていても養老さんの祖先の生まれ変わりかもしれないというのだ。蠅ですら簡単に殺してはいけないという論理がこんな形で存在している。生き物の命は繋がっているという論理でもある。
蠅を叩き潰すのは蠅たたき一本あればいい。しかし、たたき潰した蠅はだれも元に戻せない。

いま他の国々では人間の命さえ、あちこちで平気でたたき潰している。そういう現代人が「なぜ人を殺してはいけないのか」と聞かれても答えに詰まるのは当然のことかも、と養老さんは書く。

――「ここでシステムというのは、人間も含む自然や環境のことだと思ってほしい」と養老さんは改まり、「殺すのは極めて単純な作業。システムを壊すのはじつに簡単。でも、そのシステムは人間の力では作れない。だからこそ仏教では生きているものを殺してはいけない、ということになるのです。」と繰り返す。

ふたたび、「なぜ人を殺してはいけないのか」と問おう。
――むかしの坊さんは現代人よりよほど簡単に答えたろうと養老さんはつぎの答えを想定する。
「そんなのもの、殺したら二度と作れねえよ」
「蠅だってどういうわけかしらないけれど現にいるんだ。それをむやみに壊したら取り返しがつかないでしょう」
そして、「人間を自然として考えてみる。高度なシステムとして人間をとらえた場合、それに対しては畏敬の念を持つべきなのです。それは結局、自分を尊重していることにもなるのですから」と結ぶ。
(この項は次回につづく)