102 実験動物(34)安楽死論議   その3 

       ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 102

102 実験動物(34)安楽死論議   その3 

最後に横浜在住のクリスチャンで獣医師の武部正美という方からボクあてにいただいた2通の文章を紹介したい。当時雑用に追われていたのと、ボクの思慮の浅さもあって、何気なく読み飛ばしていた。いま読み返すと、深い、含蓄のあるご意見で多くのことを教えられる。

「われわれ開業獣医師はネコの安楽死について常に悩み、どういう方法でネコと共存していくのがベターなのか考えております。1)ケジメをつけての安楽死、2)子猫を自活できるまで飼って野に放つ、3)餌を与えて適当に面倒を見る、4)自然の中で彼らの生活を彼らに任せるーー以上のことが考えられ、現におこなわれています。
上記のどれが正しいか、私にはまだ結論が出ていません。

生まれたばかりの子猫や病気で死を待つ猫には積極的に安楽死を勧めますが、元気で生を楽しんでいる猫に安楽死を行うことはケジメの付け方として積極的に賛成はできません。一見して素晴らしいケジメの付け方に見えますが、猫にしてみれば、あまりに勝手過ぎないでしょうか。

あなたが書かれていたように、私も外国人の帰国に際して安楽死を依頼されることがあります。とくにキリスト教国ではこのような割り切り方が多いです。動物には魂がないというキリスト教思想に端を発しているものと考えます。

アクイナスの神学大全の中では『理性のない動物の虐待の悪は存在しない』すなわち、理性をもたない生き物は永遠の命を得ることはできないーー魂を持たないーーというのです。その影響を受けてデカルトは動物は単なる機械に過ぎない、動物の悲鳴は時計のバネが外れた時の音と同じであるいう哲学を公表しこれが西欧の現在にいたるまでの考え方なのです。

私はじつは日曜には教会で礼拝を守るキリスト者なのですが、動植物に関しては、何かわかりませんが、仏教のいう、すべての生きとし生けるものすべて魂を有するという考え方に傾いてしまいます。

そういう意味で、外国人のケジメの付け方に百%賛同できません。
25年の臨床生活の中で、このごろはとくに猫に対しては自然の中で自由に生かしてやることが自然(神)の意に則しているのでないかという考えに達しつつあります。

犬は人間に迎えられて2万年以上、さんざん人間の勝手のために改良されて今では人間の助けを得なければ生きていけないほど本能も骨抜きにされています。狂犬病のほか、野生化すれば徒党を組んで人を襲ってくる習性もあります。飼い主以外になかなか心を許さないこともあり、時には安楽死も仕方ないこともあります。昨日も飼い主を入院させるほど噛んで、それも三回目という犬を安楽死させました。ごめん、ごめん、といいながら、飼い主ともども涙のうちに安楽死の処置をしてしまいました。

猫は我々の生命を脅かす心配はありません。人間との付き合いは犬と違ってせいぜい2000年〜4000年。犬のように本能を骨抜きにするほど改良されておりません。猫は自然の中にすぐ復帰できる能力が残されています。だから猫の場合は、自然(神)に任せてもよいのではないでしょうか。

ただし、人間という勝手な動物と共存するためにはーー彼らが望む望まぬにかかわらず不妊という協力だけは許してもらうことが条件です。こうすれば、人間にさほど迷惑をかけずに生き永らえ、共存できるのではないでしょうか。

不妊はいずれの場合でも必要です。決して彼らの生命を奪うことなく、不妊という犠牲のもとに共存することがいま考えられる最高の手段ではないかと考えています。」

スコラ哲学の神学者アクイナスが「動物には魂がないから虐待しても差し支えない」とか、あのデカルトが「動物の悲鳴は時計のバネが外れたときの音と同じ」などと言っているとは知らなかった。

武部さんの文章は経験と知識と情愛がこもり、反論の余地はないが、ボクのノラの餌やりのささやかな経験を通じて、ひとこと、ふたこと。

不妊はどんな場合も必要不可欠なのはボクも同感だが、そのうえで2)のように野に放たれても、自然(神)の中で生存できるのかどうか。餌はどのように確保するのか。3)の適当に餌を与えて、の場合も、ノラ猫は汚い、ところかまわず大小便をする、といじめ、忌避する住民が少なくない。4)の自然の中で彼らの生活を彼らに任せる、というのも人間社会は彼らに厳しすぎるという現実をボクは味わった。
(この項は次回につづく)