88 動物実験⑳ 小さな優しさ 大きな優しさ

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 88

88 動物実験⑳ 小さな優しさ 大きな優しさ  

 前回、タイトルにさせてもらった「科学盲信派」と「情緒過剰派」についてコメントを少し。

動物実験に関して科学・科学者を盲信するのはなぜ間違っているのか。少々理屈っぽいがボクの考えはつぎの3点だ。

1、もともと科学とは、その時点で決定的なものでなく、つねに訂正を繰り返しながら少しずつ進歩している。それは科学の歴史をみれば明らかだ。その時点の成果やあり方を鵜呑みしては科学の進歩はない。歴史に名を残す科学者たちはすべてそれまでの学説やありかたに疑問を持ち、乗り越えていった。彼らもまたいずれ乗り越えられるべき運命にある。

2、現代のような大衆・情報社会では、それぞれが専門化し、自分の専門以外は「みんなが素人」の時代とされている。科学者はとりわけ「専門バカ」の多い職種といわれていますね。

3、科学の目的は何か。いうまでもなく人間の生活や精神に奉仕するものだ。人間と別個に科学が存在しているのでない。人間が主人公なのだ。動物実験の悲惨をよしとする人はいないだろう。だからこそ、動物を使わない「科学的代替法」が欧米を中心にどんどん広がっているのだ。従来の動物実験の考え方は、時代遅れ、いや、科学本来の発想、姿勢からすれば、非科学的であると言い換えてもよいだろう。
   
情緒過剰派といえば、ボクもその1人だ。
全体状況がみえない。くよくよ悩む。いたずらに悲しむ。そして当面の解決へ向けての道筋がつかめない。いらだちと、立ち往生がいつまでも続く。

哲学者の三木清が『人生論ノート』のなかで「嫉妬がつらいのは、疑惑の極大と極小の間を振り子のように想像・妄想が往復運動をするからだ」という趣旨のことを書いていた。
彼女にはボク以外に男がいるに違いない、いや、彼女は結局、ボクだけを愛してくれているのだ。真実のところはわからない。心はそのときどきのムードに応じて不毛のピストン運転を繰り返しながら、消耗し疲弊する。

このように人の心や情緒は不定形だ。とりわけ動物保護の人たちは心優しく、デリケートで感受性の強い人が多い。
この人たちの前景に広がる見えない光景――それは密室で、切り刻まれ、各種の悲惨な行為を受けながら悶死していく、物言えぬ動物たちの姿なのだ。

1人1人がつい神経質になり、いらだち、それぞれの悲惨のイメージと救済の手立てを描く。その思いが強いから、自分の想像図とやりかたにこだわる。手法のちょっとした違いも許せず、内部分裂を繰り返す。かつての過激派学生集団に似ている。よく言えば、純粋すぎて個に固執し、大同団結が苦手なのだ。

動物実験安楽死の問題を記事に書いたころ、新聞社には活動家のみなさんの抗議電話が殺到した。ボクだって動物のために一役買っているつもりなのに、ボクの記事が糾弾されるのだ。自分のケースとここが違う、あそこが違う、という指摘である。

全員が同一規定のハートを持っているわけじゃないし、同じ経験をしているわけでもない。まあ大きな意味で同じ方向を向いておればいいじゃありませんか、といってもわずかな誤差にこだわり、受話器を下ろしてくださらない。最長2時間という例もあった。こちらもやりかえし、結局はけんか別れ、というアンラッキーな結末はせつなかった。

本ブログで紹介した「31回 ある日いなくなったローソンの2匹」のKさんとのトラブルもそんな小さな具体例だ。

唐突だが、以前、老人ホームで聞いた話。
学校を出て、福祉を志し、喜び勇んで赴任した新人たちだが、その多くは早々とやめていく。仕事がきつい?老人が性に合わない?汚い?月給が安い?――いずれもノーだ。そんなことははじめから承知の上で就職している。
では、なぜ?

みんな優しい気持ちは持っているが、長続きしない人の優しさは、小さな優しさだという。例えばホームで決められたスケジュールは満杯だ。その枠の中へ、入居者から私用を頼まれたとする。それを優先すると、本来の仕事が残ってしまう。あるいは入居者の私用を後回しにすると、それが翌日に残る。

いずれにせよ時間が限られているのだから、どちらかの仕事が積み残しになる。そんな繰り返しが、やがて無力感と自己嫌悪と罪悪感になって積み重なり、耐えられなくなるというのだ。

大きな優しさとは、まず、老人に「いまはできないから」とはっきり断る勇気を持つ。
あるいは、この際、ホームの仕事を後回しにしてもいいという判断能力を持つこと。あれもこれも、はできないのだから、思い切ってどちらかを捨てる。より大きなもののために、小さなものは捨てる。それのできる人が長続きするのだそうだ。

そんな大きな優しさを動物保護に携わる人たちにもぜひ持ってほしいと思う。これはボク自身への自戒を込めたお願いだ。