87 動物実験(19) 科学盲信派と情緒過剰派

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 87

87 動物実験(19) 科学盲信派と情緒過剰派  

 ボクはどうも疲れてしまったようだ。初めからこわごわだったが、それなりに「人道的」な責任を感じ、動物実験の問題に職業的に取り組もうと努めたが、なんだか筋肉が強張り、心から酸素が失せようとしている。心身が疲弊してボロボロになった雰囲気だ。

これ以上は持たないと思ったときに、野上ふさ子さんの本が出た。なんて野上さんて、すごいのだろう。たったこれぽっちでダウンしてしているボクに比べて、あくまで闘志をみなぎらせ、みずみずしく、柔軟に、しぶとく、挑もうとしている。あの細い身体で。

ボクはちょっと小ずるい計算をした。せめて、野上さんの本の紹介をさせてもらおう。そして、ボクは撤退だ。動物たちよ、悪いが、お願いだ、撤退させてくれ。怨んでくれるなよ。

ボクは、野上さんの本について次ぎのように書いた。

動物実験…静かな戦いに挑む女性

「私はとくにやさしい人間ではないが、『動物実験』のことを知ったときは一ヶ月ほど世の中が暗くなった。酒を飲んでも、山に登っても、心がふさいだ。うぶな少女ではない、百戦錬磨といっていい五十男が打ちのめされたのである。

一匹の子羊、救われぬ人たちに身をなげうったキリストさん、おしゃかさんの深いかなしみが一瞬、見えたと思った。結局、臆病な私は真実にフタをし、見て見ぬふりをすることで、以前の快活な日々を取り戻したのだが。

野上ふさ子さんは逃げなかった。現場を歩き、世界各国の文献や資料を集め、仲間を募り、大学、研究所、メーカーに挑み、病院に押しかけ、役所にかけ合った。その七年間が『動物実験を考える』(三一新書)という一冊の本にまとまった。<動物保護>というと、私は感情過多、局部的、絶叫、非科学的、エゴ、といったものを連想してしまう。本書にはそれがない。動物実験の残酷さ、無意味さが感情でなく事実で、それも声高にではなく、低い声で語られている。

例えば、日本法医学雑誌に図付きで掲載されたリポートの引用がある。
『子豚三頭に暴れない程度のかるい麻酔をかけ、その胸を小石を握った拳で激しく殴り、障害の発生程度を記録する。殴打速度の最大値で肋骨が折れ、重大な肺の損傷が生じた。殴打速度が高いほど損傷が大きいという結果が得られた』。ただし、『ヒト幼児の胸部の変形挙動を見当するに当たって子豚の実験データをたとえ体重が等しくともそのまま適用することには困難がある』

このほか、25頭のイヌについて、どのくらい酸素を欠乏させると窒息死するか、といった例など、もっともらしくもアホらしい実験の数々が紹介される。そのあと『動物の命を粗末にしないため実験の事前審査制度を』と野上さんは静かに説く。

動物保護関係者をまじえた事前審査制度も、動物実験所への立ち入り検査も、すでに欧米諸国で実施されていることだ。

以前、猫の脳の表面を空気にさらして浮腫をつくった日本の論文が残酷すぎると米国の脳神経外科雑誌に掲載を拒否された例などと重ね合わせて、日本の動物実験の野蛮さ、マナーの悪さ、倫理のなさがしみじみと悲しくなる。これほど日本の無知と後進性を残している分野も珍しいのではないか。

動物実験は化学・医学の進歩に欠かせない』という研究者たちの重々しい説明に、私たちの反応はふたつに大別される。
それをうのみにする科学盲信派、
または悲鳴、絶叫、感情過多で立ち向かう情緒過剰派である。

どの派の人にとっても、本書から得るものは大きいはずだ。それは動物実験を考えることは、真実を見極めること、人生を考えることに通じるからであろう。」


(野上ふさ子さんはその後、同じ出版社から「新・動物実験を考える」を出している。この改訂版からボクは新たに多くのことを学んだ。1度は遁走したボクだが、同書を読み解きながら、もう1度、動物実験問題のせめて戸口をうろつきたい誘惑に駆られている。近いうちにこのブログで再開する予定です。)