86 動物実験⑱  山田太一と毛皮

      ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 86

86 動物実験⑱  山田太一と毛皮

 山田太一さんのテレビドラマも小説もほとんど知らないが、エッセイの類は愛読している。経験と現実に裏打ちされた穏やかな日常性の英知が湛えられてボクのような年配の者には沁みこんでくるものがある。ところが先日、たまたま再読したページに「?」とクビをかしげる記述をみつけた。「これからの生き方、死に方」という山田さんがホスト役の対談集だが、この記述は山田さんの地の文にあった。


 『いまの日本では生存に脅かされることが比較的少ないものだから、原理が無限に走ってしまうところがあると思う。ヒューマニズムなんかにしても、あれもこれも助けなくちゃいけないという方向に、どうしても行きます。

「毛皮はいかん」といっても、毛皮以外に身につけるものがないような世界だったら、そんなこといっていられないから、どうしたってリアルになりますね。(略)現時点でも、ずいぶん多くのものを、植物を含めて、殺さなければ生きていけないという現実の中で生きているわけですよね。』

 「毛皮以外に身につけるものがないような世界」というのはどこを指しているのだろう。いまの日本を批評している文章なのだが、暖衣飽食、ものみなあふれる巷のどこを探したら、そんな日本を発見できるのだろうか。
 
そして山田さんはいとも心安く毛皮とおっしゃるが、その毛皮の由来をご存知なのだろうか。ネットを一瞥しただけでつぎのような記述が飛び込んでくる。

 「動物たちは狭い檻に詰め込まれ、身動きもままならず、神経を侵され、異常行動をはじめる。


毛皮を剥ぎ取るのに麻酔も安楽死もない。おもに心臓を殴られ、蹴られ、失神したところで、剥がしやすいように逆さ吊りされ、皮を剥がれる。

途中で目を覚ます動物も多い。全身を剥がれながらもまだ意識があり、よろよろと5分間、あるいは10分間、体を起す動物もいる」といった趣旨。

 日本は世界有数の毛皮消費国で、輸入元は大半が中国だ。タヌキの皮を使った小物なども若い女性のファッションになっているが、生きたタヌキが毛皮になる過程の映像をネットでみた。

ビデオは15分だが、「辛くて長いのは見られない人のために」2分の短縮版も用意してある。「想像以上に残酷かもしれません。けれどこれが毛皮生産の実態です。中国河北省で撮影されたものです」と短い説明がついている。

ボクは恐ろしくて2分用を半分ほどみて停止した。上記の説明文を映像でなぞっていた。皮を剥がれた真っ赤な死骸が積み重なっている写真もあった。

山田さんはこうした毛皮の成り立ちと運命を知っていながら、「毛皮はいかん、といっても」、と書き流したのだろうか。

山田さんは言葉遣いの専門家である。浴びるほど言葉に接し、自身も言葉を乱費し続けていることだろう。人間の言葉は動物たちの単純なサイン、合図と違って、シグナル、象徴としての機能を持っているのが特徴だ。

たとえば「愛」という言葉ひとつをとっても、純愛、親子愛から不倫、動物愛から人類愛、さらには宇宙や環境問題のイメージをも網羅できる。こうした言葉の機能が人間の文化を育ててきた。

山田さんは「毛皮」にどんなイメージを抱いて、この文章を書かれたのだろうか。
あわせて気になるのは、山田さんはどうも毛皮反対運動の人たちを視野に入れて「あまり声高に反対するんじゃないよ」とたしなめている風にみえることである。

山田さんは毛皮生産の過程をどこまでご存知なのか?
ご存知なうえでこのような文章を書かれたのか?
かねがね真摯な考え方、表現をされている山田さんにまさかそんなことはないと信じたい。

ご存知なく、書かれたのか?
もしそうなら、言葉遣いの専門家としていかがなものであろう。
いや、言葉遣いのプロは言葉の大量生産、大量消費を業とされている分、かえってこのような言葉の無造作な乱費、初歩的なミスを犯すことがままあるものかもしれない。

それを承知しつつも、対象は、いのち、の問題である。山田さんのような有名人だけに影響は大きい。ファッションのためにこういう残虐な行為に加担し、反対運動を安直に、「事情も知らず」に、たしなめ、批判し、揶揄する印象を与えかねない言動は真に慎んでいただきたい。これは人間の倫理の基本であり、精神的な尊厳にかかわる問題だ。「毛皮」について、もっと調査し、熟慮し、深く書いてもらいたかった。