83 動物実験⑮ 医学教育=単に学位のため、ムダ多い、動物にすま

     ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 83

83 動物実験⑮ 医学教育=単に学位のため、ムダ多い、動物にすまない

京都府の開業医の方からのお手紙。医学教育のあり方にも言及して動物実験の問題点をつく。天からの良心の響きだ。

「ムダとも思える結果のなかに次のヒントがうまれることも事実だが、それでも現行の動物実験にはあまりにムダが多すぎる。

例えば多数の医師(医局員)が教授の指導のもと、学位取得を目的に数年間、動物実験で研究する。その多くは熟達した研究者でもなく、実験そのものにも十分な継続性や計画性があるとは思われない。

学位を得て医局を去り、一般の臨床医(病人を実際に診察、治療する医者のこと)になったあとは二度と実験をすることはない。実験で得られたデータは、個人の学位取得という箔付けに役立つだけ。将来の医学に役立つことは一般にはまずありえない。

実験の方法論も動物利用の倫理についても十分な指導と認識が乏しいまま、動物をいたずらに苦しめ、殺害し、臓器を採取する。薬のテストにしても、意味のない試行錯誤をくりかえしている。.臨床医に動物実験を含む医学研究がそんなに必要だろうか。

人それぞれに特性があるように、実験よりその若い力を患者と、心ふれあう臨床に傾けたほうが豊かに才能を伸ばせる医師も多いはずだ。

私は幸い、動物実験に従事することはなかった。しかし、同僚の実験を垣間見ながら救いを求める動物の悲痛な叫びを聞くたび、自分の心のなかに『何をしているのだ、はやく助けてやれ』と叫ぶものがあった。

しかし、組織の中で行われる状況のもと、くちびるをかみながら、目を伏せるよりほかにすべはなかった。力失った亡骸をみて『すまない、何も力になってやれなくて』とむなしく思うのみであった。

日本のように似たりよったりの新薬(有効な新薬と呼べるものは数少ない)が次々と開発、承認され、動物実験が安易にされ、また、患者に対する倫理的配慮が乏しい国では大学、研究所、会社という組織の中で非情な動物実験が日常化している。

動物実験により得られた論文の末尾に指導者への謝辞はあっても、その死をいたむ言葉をいまだ目にしたことはない。必要悪とされる動物実験だが、十分な計画性と熟達した技能と高い倫理性を兼ねた<真の研究者>のみに許されるものとするなら、はるかに少ない犠牲で十分な成果をあげることも可能だ。

医師も研究に投じる熱意を臨床に傾けるなら、日本の医療はもっと豊かなものになるはずである。
動物実験の倫理に関する問題は現在の医学教育、薬剤に依存した医療、大学卒業後の医師教育の問題ともかかわりが深い。これからの大きな課題である。」
京都市、開業医。

さきの特集で前島一淑・慶大教授は『動物実験は金も手間もかかる。学位取得のために安易に行うとは考えにくい』とボクのインタビューに答えている。この医師にその点を質した。

「担当教授やテーマによってももちろんばらつきはあるだろう。私の大学の場合で言うと、卒業生のだいたい5%は基礎医学へ、残りが臨床医学に進む。臨床医学に進む医師(医局員)の約3割が何らかの形で動物実験をし、学位をとる。」

実験技術の不慣れ、未熟さは多くの関係者が指摘するが、この医師の場合も同僚たちが「実験がうまくいかない、またやり直しだ」とこぼしているのをしばしば耳にした。そのたびに動物の犠牲が増える。

医局員たちは、昼間は大学病院などで診療に終われ、動物実験は夜間、片手間の形で行う。だから動物の飼育、管理もぞんざいでおろそかになりがちだ。実験という行為を除いては、できるだけ動物たちに快適な環境を、と努めている欧米とは、この点でも縁遠い。

なかんづく、街のお医者さんにとって、動物実験の研究やテーマと、日ごろ接する患者の一般診察や心のつながりと、どちらが大事なのか。動物実験は単に箔付け、といわれてもしかたがないのでは、と部外者のボクでさえ疑ってしまう。