82 動物実験⑭ サリドマイド事件から増えた動物実験

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 82

82 動物実験⑭ サリドマイド事件から増えた動物実験 

これまでの記事で、一般読者からの投稿が殺到した。身近なペット愛から、科学のあり方、宗教観、人生観までを巻き込んで、まるで人生論全集のようだった。部外者のヒューマンな「かわいそう」論から一歩踏み込んで、当事者からの必要論もあった。必要だが、やりかたが残酷で、動物の命をむだにしている、などの現場の声も多数寄せられた。

たかが動物、されど動物という言い方は動物に失礼だが、動物実験をどうみるかは、その人間の価値観を最終的に問い験す厳しいテーマであることを知らされた。実験当事者の言い分を中心に投稿の1部を紹介する。=肩書きや住所は当時のまま。

当事者はーー必要性否定できぬ、許可制確立を

動物実験の実態は当事者しかわからない。当事者が明らかにしなければ外部からはうかがい知ることのできないのが、いまの動物実験のシステムである。大阪府に住む大学教員からいただいた投稿。システムの内部からの理を尽くしたバランスのとれたご意見に聞こえる。

「獣医学教育に携わっている同僚の中には『すべての動物は人間の幸福のために存在している』と公言する傲慢な教授もたしかにいます。
一方で、真剣に実験動物の福祉を考えている教授もいます。ピンからキリまで、千差万別です。ただし、動物実験を否定する人は私をふくめてひとりもいません。

獣医学教育に携わっている者にとって動物を使っての教育や動物の病因を研究する際には、動物実験はどうしても避けることができないと思います。
その際は、動物にできるだけ苦痛を与えないように配慮しているつもりです。ときとして、獣医学の学会などで何の目的で動物実験をしているかわからないような研究発表を聞くと、動物の命を犠牲にして! と憤りを感じます。

病気の治療や症状の緩和に使われる薬剤を必要としない人はいないでしょう。薬剤を必要とするならば、薬剤の開発には動物実験はどうしても否定できないのです。例えばサリドマイドによる奇形児問題、これは動物実験をもっと増やして各種の検査を念入りにしておけば妨げられた事故といってよいのです。

この事故以来、動物実験の量、質ともに重視されはじめ、今日にいたっています。厚生省で新薬の認可を受ける際に出す資料はばく大です。そのほとんどは薬の効果,毒性、副作用などの判定に必要なものとされているのです。これらの資料のために、ときとして過酷な動物実験は必要です。

しかし、輸出国でじゅうぶんに動物実験をしてパスした薬剤を日本で再び同様の動物実験を繰り返す必要はないと思われます。現実にはそういう2重の動物実験をおこなうケースがけっこうあるのです。外国でのデータをそのまま認可資料とすれば、動物実験を少なくできるし、無駄を省き、経費節減にもなるでしょう。こういう点は再考する必要があると思います。

動物実験の際、麻酔するのがめんどうとか、実験後の動物が管理されないで化膿したりすることもよく見聞しますが、これなどは研究者のモラル以前の問題であり、許すことができません。

日本は実験動物の飼育をふくめ、医薬研究施設や運営の仕組みも遅れているのです。もちろん、動物実験をする際にも欧米のような事前審査、許可、外部の人の意見を受け入れるような方法を法的に確立すべきです。」

『すべての動物は人間の幸福のために存在している』とは、ときどきキリスト教の文献でお目にかかるフレーズだ。しかし、動物実験をする研究者がこんな場面で、こんなことを公言している傲慢ぶりには、また違った意味で不快感がこみあげてくる。

サリドマイドによる奇形児問題から、動物実験が質量ともに増えたということは知らなかった。

実験動物の飼育管理や、術後の処置については東京国立療養所村山病院の「実験犬シロ」の事件があまりにも有名だ。野上ふさ子さんらのメンバーが具体的に突きつけ、新聞やテレビも大きく取り上げ、研究者らの日ごろの言動が嘘八百であることを世間に周知させた。これはのちにくわしく経過を追う。
(次回につづく)