81 動物実験⑬ 苦痛を繰り返さすか、総数を増やすか。どちらが残

     ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 81

81 動物実験⑬ 苦痛を繰り返さすか、総数を増やすか。どちらが残酷?

このブログの13回から17回にかけて、キリスト教は動物を人間の食材、いわばツールとして割り切っている、慈悲の心がないではないか、とボクは悪口をいった。とくに著名な神学者、北森嘉蔵牧師を例に批判したけれど、動物実験に限っては、ボクのほうから謝らねばならない。キリスト教国は実験動物の苦痛を減らすためにさまざまな模索と努力をしていることがわかった。

それにくらべ、仏教は、教えの上では、「人間も動物も同じ<衆生>、生き物仲間である。だからこそ生き物を殺すことを五戒、十戒の第一にあげ、もっとも重い罪と定めている」はずだが、口先だけだ。

仏教国は日本をはじめ、動物実験は野放しである。密室の科学で、研究者任せなのだ。「動物にも、いったい全体、苦痛なんてあるのかしら?!」などと公式のシンポジュウムで、うそぶいてみせる研究者たちに一任されている。

前島教授への質問を続けよう。

―――いずれにせよ、実験動物は苦しい役目が終わった段階で,今度は死が待っているわけですね。

前島教授「原則としてそういうことです。多くの実験動物は最終的に解剖して病理を調べます。また、化学分析のためにいろいろな臓器を取り出すことになりますからね。それが実験の終点です。

このほか、実験動物は多種多様な薬物や病原菌を投与されているのがふつうです。仮にこれらの薬漬け、病原菌付けの動物を社会にもどすと、公衆衛生上の問題も生じてきます。だから、安楽死させる。それが実験動物のたどる一般的な運命です。」

―――例外的な実験動物もあるでしょう。たとえば実験の対照群にまわされた動物の場合など。

前島教授「むろん、汚染されておらず、実験の終末が死でない動物もいます。その処遇をめぐっては2つの考え方がある。

1つはその動物を再使用する。これによってほかの動物が無傷で助かる。つまり、犠牲になる実験動物の総数を減らそうとする考え方。

もう1つは、でも、それでは同じ動物が何度も苦痛を繰り返し受けねばならない。それはかわいそう、と反対する人々。
この立場にたつと、つぎつぎ新しい動物が犠牲になり、その総数は増え続ける…」

うーん、あちら立てれば、こちら立たず。実験動物に逃げ道はない。
特定の個体に同じ苦痛を何度も繰り返すのはかわいそうだが、かといってつぎつぎ犠牲者を増やすのもかわいそうだ。いや、かわいそう、などと他人事のようにいうのは傲慢だ。

なにもかも人間の都合だけで生まれた事態である。動物たちには何の関係もないのだ。人も動物も、もとは同じ地球の仲間だというのに。
人間という生き物の業のようなものを感じる。神様はこのような残酷で、強欲で、ずる賢い生き物をなぜ地上に誕生させたのであろう

動物実験は犯罪だ」と言い切った文豪、ビクトル・ユゴー
「動物の墓場を築いてまで生き延びたくない」といった音楽家リヒャルト・ワーグナーらを担いでデモ行進をしたくなる。

実験動物の苦痛について他の学会はどんな取り決めをしているのだろうか。<苦痛>に詳しい滋賀医科大学の横田敏勝教授によると国際疼痛学会では、「人間が耐えられないような痛みに動物をさらしてはならない」という基本理念を決めている。

「それが可能ならば研究者がその痛み、刺激を自分自身に加えてみるべきである」との規定もあるそうだ。

これはすばらしい規定だと一瞬思った。罰則はないにしろ、発想が飛んでいる。ヒトも動物もはじめて同じ土俵にあがるのだ。しかし、次の瞬間、これもやっぱり言葉の遊びではないかと気付いた。実際には、<それが可能でない>痛みのほうが多いに決まっている。いや、100%そうだろう。やはり動物は苦しんで死んでいくのだ。

研究者が自分の身体を使って実験できるレベルのものなら、はじめから動物実験の必要がないのだから。
まあ、しかし、努力目標だけでも研究者の姿勢は評価できるというべきなのだろう。

やけっぱちの気持ちになったボクは別れるとき、横田教授に「魚でも痛みは感じるのですか?」と尋ねた。趣味やスポーツとしての魚つりがブームになっている。釣上げた魚を得意そうにみせているブリッコタレントたちをテレビでみて、かねがね気に食わなかったので念のために聞いた。「もちろん、感じますよ」とのことであった。