78 動物実験⑩ 麻酔なしの解剖は残酷でも必要だ

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 78

78 動物実験⑩ 麻酔なしの解剖は残酷でも必要だ

動物実験はいまのままでいいのだろうか。国際世論を背景に密室主義、残酷、無法ゾーンと決め付ける保護団体に対し、「科学・医学の進歩のために」を切り札に運動の情緒過剰をなじる研究者サイド。取材を通じて感じたボクの疑問・問題点を、実験動物の福祉に最も良心的に、積極的に取り組んでいるとされる代表的な研究者である慶応大学医学部の前島一淑教授に率直に投げた。

インタビューに先立ち、30代の病院勤務医からボクに届いた内部告発の手紙をお見せした。これも踏まえて前島教授に答えてもらうためだ。

病院勤務医の証言
「15年まえのことだけど、いまもあのウサギたちの悲痛な悲鳴が悪夢のように耳に残っている。学生時代、心筋に対する薬物実験の基礎実習があったときのこと。指導教官がウサギから頚動脈をとって失血死させるのです。ウサギには麻酔をしていないのです。20匹のウサギがつぎつぎ殺されていく。百二十人の学生のために実習という名目とはいえ、何の罪もないウサギたちの命を絶つ権利が人間には与えられているのだろうかと考えさせられた。

卒業後も、友人の多くが実験サンプル採取目的のためにラットの首を切っているのを見た。

基礎データを取るために小動物を利用することは臨床応用として必要悪かもしれない。しかし、医学の発展、人類の健康という名目のもとでその犠牲のすべてが正当化され、許されるのだろうか。あまりにも素朴な疑問だが。

人間は生物界の頂点に立ち、底辺を支える動植物の侵略、乱獲を繰り返してきた。悠久な歴史に培われた自然界の恩恵を忘れてしまっているように思う。

はじめ動物を一匹殺したとき、だれしもその死は痛ましく感じられる。でもそれが度重なるといつかマヒし、単なる統計数字になるのだ。

ヘルシンキ宣言に始まり、生命倫理に関する問題は人のみならず実験動物も含め地球上の生物、ひいては広く生態系すべてに考慮されるべきことがやっと議論され始めた。

動物を用いた実験を行う以上、倫理に従い、その死を無駄にすることなく、可能な限り少ない犠牲を心がけるのは当然だろう。

医師にとってもっとも必要とされる資質は、弱者を思いやるやさしい感性だ。しかし、ともすれば医学教育の課程においては命の尊厳に対して鈍感に慣れさせることがあまりに多いのは、医師だれもが経験するところである。

偏狭な動物愛護論と一笑されるかもしれないが、日々実験に供され、犠牲となるおびただしい数の小動物の一つ一つの死が意味するものを考えたい。望むらくはそうした実験がいつかなくなることを願う」
この医師によると、臨床医で学位をとろうとする際、動物実験をする例が多くなっている。臨床データだけではもはや新味をだすのがむつかしくなり安直に動物実験に頼る傾向がある。

また、学会でも研究発表が過熱し、動物実験がどんどんふえている印象だという。動物の需要が増えることは喜んでいいのか、悲しむべきなのか…。



ボクはやっぱりこんな良心的な医師が存在することに感動した。
この手紙に対する前島教授のコメント。

 「動物実験は金も手間もかかる。毎日観察しなくてはいけないし、決して楽な作業ではない。学位論文のためなら、むしろ大腸菌酵素を利用した実験のほうが簡単だ。臨床医が学位取得という目的で安易に動物実験を行っているとは思わない。

実習の件は動物保護の立場の人からよく似た抗議を受ける。この文面だけではよくわからないが、一般論としていうと医学生は将来さまざまなコースに行く。その医師は無意味に思ったかもしれないが、ほかの学生にとってはとても意味のある実験だったかもしれない。」

――ウサギの苦痛を和らげるために、せめて麻酔をしてから解剖するような配慮はできないのですか?

「いや、麻酔をしないのにはわけがあります。麻酔をすると数値に影響が出る。麻酔なしの実験もむろんあり得るのだ。それが重要なら仮に残酷であってもやむを得ないと思う。むろん動物福祉に背いてよいというのでないが。」
(次回につづく)