75 動物実験⑦ 人間と動物の苦痛のシステムが同じだから意味があ

    ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 75

75 動物実験⑦ 人間と動物の苦痛のシステムが同じだから意味が         ある 

「いったい動物に苦痛は存在するのか? 苦痛があったとしても人間にそれはわかるのか?」。
 このばかばかしいテーマにふさわしく、議論は、もっとばかばかしく、言葉遣いの問題、定義の問題に横滑りしてしまった感がある。

たまりかねたように仲にはいったのが国立国語研究所野元菊雄さんだ。山口・安東両氏をとりもつ形で、「苦痛は動物に限らず、人の場合も概念的、抽象的で、(人の言葉を遣っても)純客観的に決めることはできない」とし、つぎのように話した。

「その意味で、動物における苦痛の存在もわからない。動物福祉運動は感情移入といえる。しかし、動物がどう感じようとヒトの感じるところに立って処理することが1つの解決策だ。動物と関係なく人道的な配慮で実験をおこなうほうが現実的でなかろうか。」。

わざとらしい言い回しで迂回している個所もあるが、これは安東氏に気を遣っているのだろう。とはいえ、この意見はまっとうだ。
 人間は自分たちの意思で動物を使った実験をし、動物の生殺与奪を握っているのだから、動物に苦痛があるかどうか、動物語に勘案して思いをめぐらすことはない。人間としてどう考えるのか、人道的なのかどうかを判断すればよいのだ。動物語がわからないからといって非人道的な行為が許されるわけでなかろう。

追い討ちをかけるように、麻酔学者からは「基本的には動物も人も同じ苦痛のメカニズムを持っているから麻酔の実験の意味がある」という趣旨の発言があった。思わず拍手をしたくなるセリフだ。短いが、パンチは絶大だ。

麻酔薬は人体実験でつくりだしたものじゃないのだ。動物実験からスタートして、人間が恩恵を受けているのだ。動物も人も同じように痛いからこそ、人間に効能があるんだろ。人間に通用しない医学・医療のために動物実験をしているというのかね。

また、岐阜大学農学部の大橋秀法教授は安東発言に対し、「現段階では科学的に実証できないが、一般の人々が考えている苦痛が動物にもあると私は考えている。もし、それが科学的に人の苦痛と違うというのであれば、別の用語を作ってもらいたい」と、止めをさすように迫った。

これらの発言には研究者たちの良心が感じられ、ボクはほっとした。
安東さんは「人の感情や精神的内容を表現する言葉を、安易に動物に当てはめて使うことに問題があるといっているだけだ」と防戦にたじたじの1幕でした。

これに先立つ説明で安東さんは「動物の苦痛の問題は科学と倫理の二つの側面が交差して複雑になる」とつぎの要旨を述べている。

「動物にも人間の痛覚に相当する内部感覚が存在する。だからといって、安易に動物の内部感覚を人間の内部感覚の表現語である苦しみ、痛み、悲しみなどに移し替えたり人の世界のイメージを投影することは科学的に見ると客観性を欠く。

むろん私たちには動物を慈しむという人間が本来持っている感情があり、これを大切にすることは重要である。動物実験の大部分は明確な目的を持って遂行され、人に役立っているし、積極的に動物を残酷に扱おうとしている研究者はいない。

しかし、第三者の目で見たときに残酷と映ることがあるのも事実だ。科学の領域の外にいる人々の批判を無視することは適切でなく、実験者とそうでない人々のコミュニケーションは大切と思われる」

冒頭の説明では動物福祉シンポジュウムとあって、建前とホンネをうまく組み合わせてソツない筋運びだったのが、いざ、本番の議論になると、つい、ホンネが溢れ出てしまった、という印象だ。

人間用語で動物の苦痛を表現するのは科学的でない、客観的でない、とおっしゃっているのだが、では、逆に安東さんご自身は実験動物の苦痛をどこまで客観的に科学的に身をもって感じ表現することができるのだろうか。
なんだか自分たちの権益・職場を守るために無益な言葉遊び、定義ごっこで批判の矛先をそらそうとして、悶えているように思えてならない。