68 生老病呆死⑩旧友への長い手紙 その6

   ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門  68

68 生老病呆死⑩旧友への長い手紙 その6

一方で、Aは私の足をよくひっぱりました。ふたつ思い出すことがあります。

1つは、夏の初め、私はふいに海で泳ぎたくなったのです。次長をはじめ、支局員が忙しく立ち働きしている支局をこっそり抜け出して、船に乗って小豆島に渡り、一日、遊びました。
 夕方、何食わぬ顔で戻ってくると、玄関のところにAがいて、「あれ、支局長、泳いできたでしょ」とにやにや笑います。私は「いや、用事ででかけていたんだ」とごまかそうとしたのですが、Aは「うそでしょ」と自信たっぷりに否定します。私はふしぎにおもい、「なぜ、わかったんだ」と聞きますと、「顔が日焼けしているじゃないですか。朝はそうでなかった」とぬかします。さすがは東大卒で頭がいいなと初めて感心しました。

2つめは、ある日曜日、ゆっくり昼前に起きておそいモーニングでも食べに出ようかと三階の支局長住宅から階段を下りていきました。二階の支局にさしかかると、日曜というのに、支局員がいっぱいいて、ざわざわしています。次長が大声で叫んでいます。ドアを開けたところにAがいたので小声で、「何かあったのか」となにげなく聴いたのです。これが運の尽きでした。

彼は「きょうは知事選の投票日ですよ。知らなかったんですか」と支局中に聞こえるような大声で素っ頓狂に叫んだのです。言い訳になりますが、そのときの知事選は、現職が圧倒的に強くて無風選挙といわれていたので、ぼくは次長にまかせっきりでつい忘れていたのです。Aの大声に支局員たちは私の方を見てくすくす笑っています。

このできごとが支局でおさまれば問題にならなかったのですが、Aがこともあろうに今度は本社でばらしてしまったのです。選挙後まもなく、本社で半年研修が開かれ、各支局から集まった一年生記者が半年間の体験を披露しました。

どの新人も一応は支局長、次長の顔をたてた発言をしたらしいのですが、四国支局のAだけはここでも素直で正直でサービス精神いっぱいの人柄を発揮して、私の失態を、実際よりオーバーにおもしろおかしく報告したらしいのです。それ以来、本社の仲間からぼくに「いったい四国はどうなっているんだ」「おまえ、相変わらずだな、左遷だよ」と、からかいの電話が相次ぎました。

その通り、その後私は出世コースから外れてしまいましたが、子分の方は、ともかくも順調に成長していっている様子を風のうわさで聞き、老後はAの成長を肴にできる楽しみがふえたと喜んでいました。

えらくなったAのことを、あいつは駆け出しのころ出来が悪くてなあ、人柄のいいのだけがとりえで、俺もいろいろ苦労させられたよ、でもまあ、おかげさんで、人間わからんものだなあーーと昔の同僚仲間に吹聴するのをひそかにもくろんでいたのです。

        この世とあの世の結び目がほどける

なにもかも夢―――彼と相撲をとり、私が1勝2敗だったこと。飼猫をかわいがってくれたこと。支局会議室で女房に卓球を教えてくれたこと、たまたま彼が亡くなる一週間前に酔っ払って携帯に電話し、またもピンボケの説教を垂れたこともーーーみんな
1陣の風のように吹き抜けていきました。

けれど、みなさん、これはカッコをつけていうのじゃありませんが、先日お母さんにも申し上げたことですが、私のような年齢になるとこの世とあの世の結び目がだんだんほどけてくるのです。

この世もあの世も区別のない、春霞のような空間と時間がぼんやりと無限に永遠に絶対的に広がっているのが見えてくるのです。この世の出来事なんか、「なんだ! しょせん、この世のことか、大したことないじゃないか」という気持にもなってくるのです。これはふしぎだけど、ほんとうのことです。

私たちはみんな大いなる宇宙の分身で1人ひとりかけがえのない存在だけど、同時にこの世に滞在中は、だれでも例外なく、ちっぽけな、とるにたらない、孤独で寂しい、無常な、悩み多い、一瞬を生きる存在でもあります。この道理をいにしえのえらい人は「真理」と呼びましたね。

私だけでなくだれでも年をとると、だんだんこの真理の世界に近づきます。
ですから、いまこうして私がまじめに話していても、その片隅の方で、少年のようなAが、「支局長また、へんなこといってる。大丈夫かな?心配だなあ。ね、いったでしょ、だから、うちの支局長は困るんですよ!」と隣の人に笑いながら軽口をたたいている光景が見えるのです。なんだか春霞のような、老人性痴呆のようなあいさつになりましたが、これで失礼します。


だらだらと長くなりました。
奥様にわけてよろしくお伝えください。
もう1つ、蛇足ですが、寒中お見舞いのはがきの添え書き「まだまだ山あり、谷ありです」をみて、貴兄のもうひとつの姿をみた気がしました。度胸が据わっている、覚悟ができている、と感服しました。
話はつきません。それではこれで失礼します。
3月にはお会いできるとか、楽しみにしています。
 読み返さないで投函します。誤字脱字、おかしなところがあってもご勘弁を。           さようなら。